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妄想日記「となりの偉人」

松木紗枝 32歳 パート勤務

わたしの右隣の部屋には偉人が住んでいる。あなたで言う、憧れの芸能人や、人生を変えた恩師や、星となった数々の伝説のような人が、それに当たると思って欲しい。とにかく、わたしと今広い意味では同じ屋根の下、右隣にいらっしゃるのはわたしが憧れてやまない小説家Kなのである。

とはいえ、初めからKだとわかっていたわけではない。そもそも、この家は木造2階建てのアパートで消失への道を日々一歩ずつ歩んでいるような建物だったので、こんな場所に今や日本を代表する小説家となったKが住むはずがないと思っていた。ただ、K自身もわたしが「Kではないか?」と疑っているのに薄々気付いており、それを楽しむかのように時たま証拠をわざとらしくわたしの前にぶら下げるのであった。雑誌にて以前愛用していると語っていた万年筆を耳にかけたままゴミ出しをしていたり、飼っていると公言していた猫のサンマを抱いたままベランダへ出てきて洗濯物を干すわたしに会釈をしてきたり…その姿はまるで悪戯好きな小学男児のようだった。対するわたしは、「試されている」と思うほど臆病になって、となりの偉人を持て余していた。

そんなある日、わたしの目に驚くべきニュースが飛び込む。それは「速報!日本が誇る小説家K死去」というもので、その日はそのニュースでテレビもラジオも溢れかえっていた。わたしは、このニュースにかなりの衝撃とショックを受けた。何しろ、死因は明かされていないもののあまり外に出ている様子のなかったKのことだ。恐らく隣の部屋で息絶えた可能性が高い。近くにいたにもかかわらず何もできなかった後悔と、「どうせなら話しかけておけばよかった」という俗な後悔がやってきて、やがて、いやこれでよかったのだと思った。一ファンとして、無数の素晴らしい読書体験をKからは貰えたし、少なからず隣人としてKの生活の登場人物になれたのだから。とはいえ、無性に呑みたい気分に襲われた。悲しいニュースなはずなのに、何故か気分はハイになっている。わたしは、近くのコンビニに小走りで向かいハイボールとスルメイカを買い、ここに越してきてから意識はしていながらも一度も足を踏み入れたことのなかった小さな公園へ向かった。土地が膨大にあった地元の公園とは全然違う。街の隙間を埋めるためだけに作られたかのような正方形の公園のたった一つのベンチに座る。遊具は、滑り台だけ。昼間、この公園で遊ぶ子供たちは永遠にぐるぐると滑り台を滑っては登り、滑っては登り続けるのだろうか。きっとこの公園ではそれくらいしかすることがない。ハイボールの缶を開け、口へと運ぶ。普段あまりお酒を呑まないわたしの喉には9パーセントのアルコールは強すぎる。顔をしかめながら実にまずそうな顔をしてわたしは一気にハイボールを呑みきった。

出番を失ったスルメイカをぶらぶらと持ちながら帰宅すると、ドア横のポストに何やら挟まっていることに気付いた。少々のぼせた頭で「なんだろう」と思いながらつまむ。それは、3つ折りにされた手紙のようだった。戸惑いながらも、ドアに背中を預け読み始める。だが、一行目でわたしの心臓は止まりそうになった。それは、Kからの手紙だったからだ。

「おとなりさんへ

ああ、わたしはKだけれども、まったく、きみがいつまでも僕の遊びに付き合ってくれないから痺れを切らして死んでしまったよ。ハハハ!なんてね。いずれ、一度は死んでみたかったんだ。こういう気持ち、僕のファンならわかるだろう?

きみは、本当に不用心な人さ。越してきて、ベランダでタバコを吸いながら隣にどんな奴が住んでいるのかなと覗いてみたのさ。まさか、カーテンをつけていないなんて思いもしなかったよ。きみは、貧乏なのかい?まあ、いいや。お互い、いろんな事情があるものさ。とにかく、きみの部屋が丸見えで、ここまで開けっぴろげに丸見えだと罪悪感も湧かないものだね。じっと見ていたのさ。きみもこれで何できみが僕のファンだと気付いたか分かると思うけど、きみの部屋には本しかなかった。机も、本を積み上げたものだったし、ベットも二冊筒ずつズラッと並べられた本の上に布団を敷いたものだった。そして、その全ての本が僕の本だと知った時さすがの僕も引いたね。一体、きみは何冊ずつ僕の本を買っているの?アイドルCDの買い方をする読者がいるなんて、度肝抜かれたよ。

とにかく、きみがわたしの読者だと知ってこりゃあいいと思った。だって、僕には家族がいないから、一度目に死んでもし生き返らなかったらと考えると何か残しておくべきだろう?サンマは猫だから、文字が読めないしさ。だから、これを念のため書いておくよ。生き返る予定だから、まあ、本当に保険だな。

人は、最後子供に戻るって言うだろう?大人になる為に一生懸命覚えた言葉も忘れていくし、必死に稼いだ金も結局天国には持っていけないわけだから無一文に逆戻り。最後は、自分が誰かもわからず死んでいくなんて嫌だなと思ったのさ。まあ、誰だって嫌だよな。でも、僕はみんなよりもっとそれが嫌だったんだ。だから、僕は「僕のスピードで子供に戻ろう」と決めたんだ。まずは、小説を書くのを辞めたよ。書き続けているうちは、前に進んでしまうからね。次に、住む家を変えた。元々買っていた一軒家を売って、大学の頃住んでいたマンション、高校時代住んでいた住宅地、小学生のころ住んでいた縁側付きの一軒家、そして、生まれた頃住んでいた部屋がここというわけさ。お金も、少しずつ手放した。あまりにいろんな場所に寄付したから最後の方は「貴婦人の土遊びの会」とか訳が分からない団体にも寄付しちゃったよ。というわけで、晴れて一文無しになった。すべて、手放すっていいものだな。部屋の中で裏返って天井に向けて手足をバタバタさせてみると、本当に赤ん坊に戻った気分になるよ。まあ、最後までタバコはやめられなかったけど。そう言ったわけで、僕は晴れて一度死んでみようと思う。

輪廻を天国で待つんじゃなくて、自分の意志で僕は僕の人生を回すんだ。滑り台を滑って登って、滑って登って…あんな風にわたしは回りながら遊びながら命の周りを回り続けようと思う。

PS:猫のサンマのことは頼んだ。まあ、僕が戻ってくるまでの間だけさ。」

一気に読み終えてから、わたしはドアに体を預けたままずるずると座り込んだ。そして、ハッとして自分の部屋に入る。Kの本で出来た部屋を走って横切りベランダへ出る。すると、隣のベランダにはいかにも楽しそうに笑いながらタバコを吸うKがいた。

「どう?」

「どうって…」

「思ったより早く生き返れてしまったよ」

わたしは、これが幽霊なのか、それともすべてKの悪戯なのかどうでもよくなってつられて笑ってしまう。月は、満月でも三日月でもなく中途半端に欠けている。それがまた、滑稽で自然とこんな言葉が出てきた。

「二度目の人生は、どうするんですか?」

そうして、答える代わりにKは「にゃあ」と笑った。

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