品品喫茶譚 第68回『栃木 今市 アラジン』
祖母が他界した。
ギターをかじり始めた頃、二階の部屋で私がかなり悦に入りながら歌っていると、祖母がいきなりドアを開けて何度も肝を冷やしたものだ。
「ポテト揚げたけど食べるかい」
祖母はよくポテトを揚げてくれた。
冷凍食品ではなく一から作ってくれていた。皮をむき、芽を取り、細く切る。めんどくさい作業だったことだろう。油を用意するのも面倒だったはずだ。自炊ができるようになったいま、私は祖母の作業の大変さがようやっとわかる。
へにょへにょ細く切られたポテトが白いキッチンペーパーの上に沢山のっている。何とも言えない不思議なポテトだった。私はそれが大好きだった。
祖母は運転もよくしていた。地図を見るのが好きだった。色々な道を知っていた。大学生の頃、頻繁に帰省していた私を駅によく迎えに来てくれたのも祖母だった。免許を取ってからは、助手席に祖母に乗ってもらうこともあった。
どこか前のめりな歩き方でスタスタ歩いた。
じいさんが死んだとき、じいさんの鼻先に芽吹き始めた枝を持っていき「春の匂いがするだろう」と言って泣いた。
当たり前だけど、数えきれないくらいの思い出がある。
数年前に転んで骨折し、入院した。去年施設に入って、家に帰ることはなかった。
両親は祖母のことをよく気にかけながら暮らしていた。
私は京都に、遠くにいるだけだった。
実家に帰ると、祖母が自分の部屋に寝ていた。少し口が開いていて、まるでいまにも目を覚ましそうな顔だった。いつもの祖母だ。本当に目を覚ましてくれたらいいなと思いながら、ずっと祖母の顔を見ていると、本当に目を覚ましそうで少しおっかなくなった。
祖母は抒情歌が好きだったので、部屋にはずっと抒情歌が流れていた。CDではなく、ポータブルDVDプレイヤーから流れていた。夕刻にちょうど蛍の光が流れて、スーパーの閉店のときみたいになったと母が言った。
祖母は晩年になっても若い頃に覚えたピアノをちょろちょろ弾いた。みんなが促すと、あくまでも渋々という態で、ピアノの前に座るのだった。
調律の長いことされていない祖母のピアノがポロンポロン鳴った。
下手なりに私がギターを合わせてみたこともあって、二人でしっちゃかめっちゃかやっていると、親父がハーモニカを持っておもむろに加わってきて、めちゃくちゃ地味な「耳をすませば」みたいになった。腰掛けた祖母の背中は曲がってこんもりとしていた。
旅立ちを前にした祖母が家で過ごす最後の夜、実家にあったクラシックギターを弾いて祖母の前で歌った。チューニングが怪しかったが、なるべく優しく弾いた。静かに聴いてくれていた。アンコールです、と心の中で言い、調子に乗って二曲も歌った。
祖母はいま骨になって自分の部屋にいる。
遺影はいえいと笑っている。とてもいい笑顔だ。
このブログは喫茶譚だから、ここでほんの少しだけ喫茶店の話題が出てくる。
祖母と唯一、一緒に行った喫茶店は「アラジン」という名前だった。私の実家は日光だが、アラジンはその隣町の今市にあった。あったというのはいまはないということで、私たちが初めて訪れた日がなんと閉店の日だったのだ。店には近所の常連さんも訪れていたけれど、いきなり最終日に初めてのお客さんが来て、店の方を困惑させてしまったかもしれない。朗らかなおばあさんが店主だった。きっといい店だったのだろう。もう五年も前のことになる。
そのときの写真が残っている。祖母と親父が隣り合って座っている。二月だったのに私はソーダ水をすすりながらえへえへ笑っている。祖母や家族を自分の趣味に巻き込めて嬉しかったのかもしれない。そんなしまりのない笑顔を祖母に見せることももうできない。
それにしても、じめじめと蒸し暑い。細かい雨が降ったりやんだりしている。それなのに、ホーホケキョとウグイスが絶えず鳴いている。時折、ものすごいリズムでさえずりだす。まるで歌を歌っているみたいだ。そういえば通夜のとき、若い坊さんの木魚もいいリズムを刻んでいた。トンボも飛んでいる。春か。夏か。秋なのか。寂しい心は冬でもある。
通夜の日は信じられないくらいの土砂降りだった。翌日は嘘のように晴れた。祖母らしいといえばそうだったのかもしれない。
ドリップ珈琲を淹れて飲む。実家の周りは人けがなく物音ひとつしない。
いま祖母は極楽に向かって、そのせっかちな性格でもって前のめりにぐんぐん進んでいることだろう。
ばあちゃん、謝謝。再見!