カタログ化された建築手法


設計を学んでいく上で必ずプレゼンテーションボードに利用しているのがダイアグラム。これは勿論、各々のアイディアをより分かりやすく説明するためのものである。

スラブをずらす(利用法によってズレの大きさは異なる)・吹き抜けをつくる・開口による内外の関係性をつくる等…

大概はこのような手法をいかに取り入れ、どのように使い手や周囲の環境にフィットさせていくかということを考えるわけである。
では、これらのダイアグラムをカタログ化してしまったらどうか?

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建築家だけでなくて、誰もが利用できるカタログ。自分の部屋と他の部屋を視覚的に繋げたい、段差を利用した空間を用いたい等それぞれの理由に合った形状を選択していく。自分でスマホケースが作れちゃうアプリ!みたいに、こんなカタログがあったら、もしかしたら建築家ではなくとも発注者が各々必要としているものを選択していくことで1つの建築が出来上がってしまうかもしれない。と、ふと思ったのである。可能性の話。


述べるだけ述べたが、こんなものができてしまうことは絶対的に反対である。そんな建築が面白いわけがない。面白いという表現は間違っているかもしれないが、そこに個性はないだろうし、そんな機械的な世界で生きたいとは思わない。(doctorXを観ている人はわかるのではないだろうか。AI化された世界は便利かもしれないが心はない。1対1の人間だったら発見出来るかもしれないところが隠れてしまうかもしれない。)ただ言えるのは、可能性がないことはないのではということである。現に、建築学生はそうなってしまっていないだろうか?使えそうなダイアグラムを探して自分の設計に当てはめていく。学ぶという段階では必要なものかもしれないが、ダイアグラム化みたいなものにこだわりすぎてはいけないと思う。説明するためには必要かもしれない。でも何故だろうか、何だか負に落ちないのである。
しかし、自分がこれまでに見てきたものややってきたことがインスピレーションとなるのが普通で、一般的に今までにないような新しいものをゼロから生み出すのは無理だと言われている。稀に天才的なピアニストみたいな、感情や感性から音楽を生み出すみたいな例もあるが。

全く、変な違和感を感じるようになってしまったものだ。


常に新しいものを生み出そうと試みる。
それが自分の可能性をなくさないための手法かもしれない。
自分にしかできないことをするという気持ちを忘れずに生きていきたい。


p.s. 高校生の時、毎朝英語の単語テストがあり、毎回1問ミスとかで再テストor英文10個ずつ書きなぐり、をさせられていて、ふと満点を取った際に先生から「ポテンシャルはあるんだから頑張ろう!!!」と言われたが、英語のみの授業やWorkshopに参加するようになった今でもなお、英語が得意になる気配はない。結局、ポテンシャルって何だろうねって話。

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