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自分のど真ん中を生きる〜どういうこと?〜

最近、私自身が「今のそのままの私」でいることに居心地の悪さを感じなくなったらしい、と気づきnoteにも書いた。

これが本当に楽で、心も気持ちも軽い。
え?  ずっとそうだけれど、みんなそうじゃないの?  みたいな人もきっと沢山いるのだろうな。

さて、うちには大学生の息子がいる。
息子については、長年に渡り私のモヤモヤのタネである。
もうね、こういうところがです!  と言葉で説明のしようがないので、キカナイデクダサイ。

その息子、ロフトベッドを使っているのだけれど、そのベッド上が闇……。
何がかというと、空のペットボトル(500じゃないよ。2リットルだよ)とタバコの空箱がわんさかあり、そこにゲーム機や充電用のデカいアダプターやなんやかんや。とにかくペットボトルと物でいっぱい。

私はそれだけでもゾッとするのだけれど、そんな状態なので寝具の洗濯ができない。
シーツを手にするまでに、まずゴミを捨てて、物をどかして、とにかく大変な作業になるのだ。
しかも、大学に毎日行くわけではないので家にいることも多く、いつもベッドの上に寝転んでスマホを見ているか寝ているか。
手のつけようがないベッドの上。
それを見る度にモヤモヤしていた。

また(ゴミが)溜まっている。
どうしてその都度捨てないのかな。
シーツ、洗いたい。
でもペットボトル片付けるの結構大変。
シーツ、汚そう……
不健康……不衛生……
でもペットボトル……
このループだった。

私が最後に息子のベッドの上を片付けて、シーツを洗濯したのはいつだっただろう。息子が泊まりでスノボに行った時に、今だ!  と思いキレイにした。

「うわ、ありがとう。捨ててくれたんだ。シーツもサラサラ」と喜ぶ息子に、
「今後は毎回ペットボトルを捨てるように」と伝えて、
「はーい」と返事はいい、返事は。
しかし再び積み重ねられていくペットボトル。
なぜだ……わからん。

もはや幼子ではない二十歳の大人の部屋。
溜まりゆくゴミを私が片付けるのか?
もうそこまでやりたくなかった。心底嫌だった。
自分でやってほしい。
ゴミはゴミ箱に捨ててほしい。
リサイクルはリサイクルに分けてほしい。
しかーし、結局私が耐えきれずに片付ける。
見たくないから私の為に片付ける。
と息子はやらずに済むし、そうするといつまでたっても彼はやらない。
どうすりゃいいのよ。すっごいジレンマがあった。

ゴミの山は嫌だー。でも息子が溜めたそれを毎回片付けるのももう嫌だー。
そして遂に私は片付けないことを選んだ。
決心した。
もう放っておく。ゴミも息子も。
だからシーツも洗わない。洗えないし。
というのが、今年の2月ごろのことだ。

それにしても心底不思議でたまらなかった。
よくあそこで寝られるね。
気にならないものなのかね。
狭くないのかね。
まぁ、本人が平気ならいいか。
私だったら嫌だけど。絶対に嫌だけど。
息子がいいならいいか。

洗濯した衣類を持って息子の部屋に入り、否応でも目に入るベッドの上の光景。
しかし、もう知らん。知らんぞ。
と言いつつ気休めに、空間浄化のつもりで時々アロマのスプレーを部屋中に噴射しまくった。もちろんベッドの上にも!  

そんな感じだったある日。
おーおー、相変わらず凄いねー。と思ったらなんだか愉快になってきて、息子も出かけていていなかったし、写真撮っちゃおーと、撮影をした。

それで、この時の私の心境が少し変化をしていて、(息子が)片付けてもいいし、そのままでもいいし、「どちらでもいいよね」になっていた。

汚いのが平気になったわけではなくて、それは嫌だけれど、息子がどうしようと、どちらでもいいよねって。私も何もしないけれど、それもいいよねって。

以前は、「できるならば自分で片付ける人になってほしい」と密かな望みを抱いていた。
でもそれが、「まあ、そうなったら最高に嬉しいけれど、そうでなくてもいいかもね」
くらいになった。
おー。息子じゃなくて私が変わったらしい。

そうしたらこの撮影のニ日後に、
「ペットボトル捨てたから、シーツ洗ってください。もう無理。気持ちよく寝られない」って。
ええええっ!  誰が何をどうしたって?
ビックリしたー。そんなこと息子から初めて言われた。
部屋を見てみると、本当にペットボトルが無くなっていて、物もそれなりに片付けられ、ベッドの上がスッキリしていた。
こんなことがあるんかねぇ。どういうことだろうねぇ。そう思った。
夫も「息子の部屋見た?  ペットボトルが全部捨てられているけれど、何があったの?」とわざわざ訊きにきて、それはもう家庭内では驚きの出来事だった。

息子の部屋でもそこは私んち。
住処がキレイになり、私は本当に嬉しかった。掃除してくれた息子に大感謝だった。
「うわー、スッキリしてる!  片付けたんだね。ありがとう〜。気持ちいいね〜。嬉しい」と気持ちを伝えた。
シーツでも何でも洗いますとも。

清潔なシーツとブランケットに、
「気持ちいいー。もう耐えられなかった。ペットボトルがあって足も伸ばせないしさ」と。

そうか。別に平気なわけではなかったのか。
気持ちが悪かったのか。
それを知って私は安心した。

この出来事がちょうどひと月前で、昨日、そろそろどうなっているかと息子のベッドを見たら、飲みかけのペットボトルが一本だけ置かれていた。

あらま。
スッキリを保っているじゃあないの。

この体験で何を思ったのかというと、私が私自身に対して「今のそのままでいい」となったら、
外側(息子)に対しても同じように「そのままでいいよね」ってなるんだなぁ。
本当に自分に対してしていることを自然と人にもするようになるのだなぁ。
そして、意識が現実にそっくりそのまま現れるのだなぁ。
ということだった。

これまでがこれまでだけに、未だにペットボトル一本!  に感激して息子にそう伝えたら、
「オレもう二十歳ですけど。 ……二十歳でそんなことで親に喜ばれてるオレってさ、なんだろうね」と苦笑い気味だった。己をかえりみる二十歳の夏である。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。



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