人形と悲しみと。

斎藤一は、悲しくて仕方なかった。
「かなしくて仕方ないんだ。」と斎藤一は、言った。
「どうして?」彼の悲しみの原因についてさっぱり検討がつかなくて、赤平由紀子は、聞き返した。
「うん。」言いにくそうな顔をして、うなだれた。
家の中には、由紀子が買ってきた、ちいさな人形やぬいぐるみが、いくつも置いてあった。キャラクターグッズの、安っぽいプラスチックの人形もあれば、旅行のお土産屋で売っているようなものもあった。箪笥の上とか机の上とか、そこかしこに、種類においてあまり統一感のない人形の群体が生まれていた。人形たちは、抜け目なく監視する。赤平由紀子も、彼女自身、取り留めなさを装いながら、内心ではきつく抜け目ない女だった。
斎藤一の目の前には、くまのぬいぐるみがあった。二年前、由紀子と付き合い始めたときに、由紀子がはじめて彼の家に持ち込んだぬいぐるみだった。(俺の部屋には似合わねえよ。)と内心思っていたが、気にしなかった。くまのぬいぐるみは、二年間のあいだに、何度も何度も撫でられて、すっかり手垢で汚れていた。水洗いできるのかわからないから、たまに日干ししていたが、そのせいで、若干日焼けもして、もともと茶色かったのに、今では黒っぽくなっていた。部屋のいたるところに、小さな人形と、ぬいぐるみ、パソコン台の上には、陶器の羊の人形が目に入る。もちろんすべて由紀子が持ち込んだものだった。
徐々にこの家のなかは、斎藤一と由紀子の空間になっていって、きょう、とつぜん、由紀子と出会う前の家では、もうなくなってしまったことに、斎藤一は気づいたのだった。
「妻が死んで三年経ったじゃん。」斎藤一は正直になることにした。
「うん。」由紀子はうなずいた。
「なんかね、もう死んじゃったんだけど。」
「うん。」
「当時は、あんまり悲しくなかったんだよ。」
「そうなの?」
「不思議だけど、そうなんだよ。妻は、脳梗塞で、朝元気だったのに、職場で死んだって、病院と妻の会社から電話がきて。」斎藤一は、ぽつり、ぽつり話しつづけた。由紀子は、なんとなく、おごそかなものを感じながら、聞いていた。
「それで。妻の死体を見た時は、『ああそうだろうな。』って納得したんだよ。人生ってそうだよなって。」
「人生ってそうなのかね。」やりきれない、答えのない、悩みをつくりだすような、色合いが、咲いていた。
「葬式して。妻の両親といっしょに話したりして。そんでお義父さんが言うんだよね。『はじめくんは若いんだから、小百合のこと忘れて、新しい良い人を見つけんさい。子どもいねがったしな。』めちゃくちゃ訛ってるんだよ。んで俺も納得したのね。そうだよなって。俺の人生はこれからだよなって。」
「うん。」
「妻とはけっこういっしょに出かけてたんだよ。外食したり。遊んだり。今でもけっこう覚えてて。妻のこと。まあ、大学卒業してから十年もいっしょにいたからね。この家もさ。引っ越さないで。妻といっしょに暮らした家だよ。」
「うん。」
「で、最初は妻の匂いが残ってたんだけどね。どうも。最近。由紀子と同棲はじめてから。すっかり妻の匂いが消えちゃったなって。」
「あー。」やわらかい気分の悪さが、彼女をおそった。しかし、死んだ人間への嫉妬というのは、どこにもぶつけることができない。はじめくんが、心の中を整理して、妻の思い出を解消しなければ、死んだ人間に勝利することはできなかった。持ち込んだ人形たちが、彼の元妻のおもかげを消すのに役立っても。人形は、過去を消すための兵隊だった。由紀子の想いを届ける砲弾だった。女と女の戦いではなく、死者と生者の争いだった。
「とつぜん、悲しくなったんだ。」
「…。」
「どうしようもないくらいさみしい。」
「…。」
「妻が好きとかじゃなくて。なんつうんだろ。妻のものって、もうなんにもないんだよね。このうちに。つうか処分したしさ。…でもさ。妻は十年もここに住んだのにさ、痕跡ひとつ残さず、跡形もなく消えちまうって、すげえ寂しくない?俺も死んだら、そうなるわけじゃん。なんだろうね、みんな消えちまうんだなって想うと、妻のことだけじゃなくて、いろんなことが寂しいっていうか。」
由紀子はなんとなく話の方向がかわって、スッと心が軽くなるのを感じた。そうよね、そうよね、奥さんのこと自体を、悲しんでいるんじゃ、ないよね、と納得して、死んでいれば、いくら愛し合っていても、生きている者には敵わない、絶対に、とゆるやかな感慨が迫った。そして、よしよしと、斎藤一の頭を撫でてやった。斎藤一は、ぐにゃりと首をかしげて、撫でられるに任せた。
「なんかよくわかんないうちに人って死んじゃうんなあ。妻死んだの、三年前だから、まだ二十九だよ。」
「そうねー。突然死って、流行ってるのかしらねえ。」
「人形は死なねえもんなあ。」そう言って、斎藤一は、くまのぬいぐるみをぐりぐり撫でた。「死なねえもんなあ。でも俺たちも死ぬんだもんな。なんかさみしいな。」
由紀子は、すっと斎藤一の背中も撫でてやった。突然の勝利をかんじた。勝ったんだ、あたしが勝ったんだ、死んだ者は消えていくんだ。あたしの勝ちだ。
「きょうははじめくんのこと、いっぱいいっぱい慰めるよ!」取ってつけたような、なんとも奇妙な、言葉だった。まるで、彼の家にあるたくさんの人形とぬいぐるみのように、彼の心を埋めるためだけに、撒かれたような、むなしい言葉だった。斎藤一は、余計に悲しくなった。妻とは比べたくないのに、なんでかなと想っても、由紀子の機嫌が良いのが腹立たしい。
きょうの寂しさだけは、死んだ妻への手向けにしようと、トイレに行って、ちょっと泣いた。

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