憲法改正 (短編小説)
「憲法改正されたらやばいんだよ。マジで。人権がなくなるんだぜ?」と勝也は大声で言った。
「声でかい」美代子は爪を切りながら勝也を注意した。パチンパチンと爪が規則正しいリズムで切り揃えられていく。しかし、右足の人差し指の爪を切るのに手間取って彼女はチッと舌打ちした。
「緊急事態条項もやばいんだって。マジで」勝也はまだ騒いでいる。旦那の語彙力の少なさに美代子は辟易した。この男は政治に口出しをしているが、足元の生活のことを考えない。低学歴の無職のくせに、と美代子は思った。
「憲法とかどうでも良いでしょ。まずは仕事見つけなよ」と美代子は言った。(結局自分が就職できない不満を政治のせいにして、問題を誤魔化しているだけだ)と彼女は心の中で思った。
「いやだからさ。俺が仕事見つかんないのも今の政治が悪いせいでさ」勝也は顔を赤くして自己弁護した。
美代子は切り終わった爪をゴミ箱にパラパラと捨てながら
「あのねえ。政治が悪かろうがなんだろうが皆んな働いてるでしょ。そうやって社会のせいにしてたら何にも変わらないよ」と美代子は言った。勝也が仕事を辞めて三ヶ月になる。失業保険がまだ出ているが、美代子は不安で仕方なかった。
(なんでこう伝わらないのだろうか。憲法改正されたら、人権が無くなってしまうのに)と勝也は心の中でイラついた。彼は失業してからツイッターやYouTubeで毎日のように憲法改正の危険性を調べていた。与党の議員連中が裏金を作っているのになぜ捕まらないのだろうか、と怒っていた。憲法改正に比べたら就職問題など二の次であるし、何より働きたくなかった。前の職場で上司からパワハラを受けたせいで、できれば仕事をしないで済ませられるなら済ましたかった。美代子の給料で二人で慎ましく生きるくらいならなんとかなるし、子どもは作らなければ良いし、幸いにも俺は結婚しているのだ。古風な考え方をする美代子に、離婚という発想はないだろう。うん、二人ならなんとかなるし、俺は専業主夫で良いのだから。男女平等の世の中なら、俺が専業主夫になったって誰にも文句は言わせない。それよりも憲法改正がヤバい。人権が制限されるのだ。その話題を、勝也はしたくてしたくて仕方なかった。
「失業保険切れたらどうするの?」美代子は言った。
「おいおい。失業保険とか社会保障が日本が他の国よりもずっと少なくてひどい国なんだぞ。それに農薬の規制だって」勝也は力説した。
「他の国はどうでも良いの。日本の政治はどうでも良いの。問題は、私たちの、生活でしょ!」美代子も、全く気持ちの通じない勝也に苛ついて、声を荒げた。
「いやいや、俺たちがこんな生活になってるのは、国が悪いんだぞ」
「国がどうの関係なく、ちゃんと生活してる人はどんな環境でもちゃんと生活します!」美代子は本気で怒ると敬語になるのだった。勝也は美代子が本気で怒っているのがわかって少しまずいことになったなと思った。
「ごめんて」と勝也は謝った。
「勝っちゃん、パワハラとか前の会社で辛かったの分かるよ。だからさ。辛いなら辛いって言ってよ。働けないならまだ休んでて良いから。国とかなんだとかのせいにして、逃げないでよ。ちゃんと私たちの家庭に向き合ってよ」と美代子は誠実に言った。勝也にとって見なければならないのはツイッターやYouTubeの情報ではなく、私との将来だと、美代子は思っていた。
しかし、今度は美代子のこの発言に勝也がカチンときた。
「いやいや!逃げてねえし。なんで逃げんの?仕事とかネット見て探してるし!(実は探してなどいなかった。)美代ちゃんのことも将来のことも考えてるし!てか政治悪いから俺たちこんな生活なんでしょ?なんで裏金の問題とか美代ちゃん怒んないの?いやマジで。わかんねえわ」勝也は、与党が憲法を改正しようとしてくれるおかげで、いつまでも美代子に甘えていられると思っていた。与党を批判していれば、自分を見直す必要はなかった。自分の力ではどうしようもない力が働いているから、彼は無職だし、彼らの生活は苦しいのだ、だから生きるための努力などする必要はないのだと勝也は思っていた。何もしたくない、楽したい、与党の悪事は良い言い訳になるよ、ずっと怠惰に生活したい、それが彼の本音だった。それは深層心理でそう思っているだけで、表層の意識では、本当に与党が悪くて、与党のせいで自分たちの生活はこんなに酷い目に合っていると思っていた。表向きの思考では、彼はちゃんと就職したいと考えていたし、その意志を美代子に伝えてもいた。しかし、美代子は、勝也の依存的な深層心理に気づいていた。彼女に寄り添ってくる依存的な勝也の怠惰が、嫌で嫌で仕方なかった。
「もういいです」美代子は呆れて言った。
「良いなら良いじゃん!」勝也は美代子のつれない返事にさらに声を荒げた。「ていうかマジでさあ、議員たちが脱税してんのにさ、俺たち税金払わなくて良くね?」勝也は延々と与党の悪口を言い続けた。自分よりも巨大な存在が悪であることは、惨めな庶民にとっては、一つの救いだった。そして美代子のように家庭を支えている大黒柱にとっては、生活が忙しすぎるのだ、裏金も憲法改正も薬害も、あらゆることを気にする暇などない、今の生活を守ることで精一杯だった。今の生活の苦しさは、働くことでしか解消されないと彼女は本気で信じていたし、外部の影響力(たとえば行政による福祉など)で生活が変わるという当たり前のことを考える余裕はなかった。美代子は知らず知らず生活に疲れていて、そのようになったのは、自分の努力不足だとも本気で思っていた。馬車馬のように毎日を生きて、休日には遊園地に行ったり、着もしないような洋服を買ったり、虚しい経済的消費を繰り返すことで、ストレスを解消するだけだった。
しかし、美代子も勝也も、与党(と官僚、野党、グローバル企業)が、死神の鎌で、本気で庶民の命を刈り取ろうとしているとは思っていなかった。勝也は人権が制限されると騒いでいたが、本当にそんなことが有り得るとは思っていなかった。美代子も生活が忙しくて、勝也の言うことなど働かないための言い訳にしか聞こえなかった。
悪魔たちは、死神の鎌を振るおうと準備していた。庶民は出荷前の豚のようだった。日々の生活にブゥブゥと文句を漏らす程度のことしかしなかった。屠殺人に本気で反抗する人は殆どいなかった。