その日 (短編小説)
田辺優一は生きる気力がなかった。なぜ生きているのかわからなかった。今日は病院に行って降圧剤をもらってくる日だった。毎日降圧剤を飲まないといけないのが嫌だったが、とつぜん飲むのをやめてしまうと「命にかかわりますよ」と読んだ本に書いてあって、やめるにやめられなかった。
仕事を定年退職してから、外に行く用事は医者通いくらいだった。医者通いもしなくなったら、どこにも外出しなくなって、それこそ家の中でずっとこもりきりになる。妻は俺を邪魔者扱いしている。やっぱり病院くらいは、自分の健康のためにも行こうと重い腰を上げて、家着から外着に着替えて
「ちょっと中山クリニックに行ってきます」と妻に言ったが、家内は返事の一つもしなかった。
はあ、とため息をつきながら、ゆっくりと中山クリニックまで歩いた。
もう昼を過ぎていて、徐々に春の雰囲気が道を彩り始めていたが、彼の目にはそんなものは見えなかった。憂鬱な気分、残された老後を、とりあえず少しでも長く生きたいが、はやく死んでしまいたい気分でもある、そんなどうしようもなくわがままな心で歩いていた。
彼の憂鬱はここ最近ずいぶんひどくなっていた。というのも、おとといの夜更け、久しぶりに妻の寝床に入ろうとしたのだが(気持ちを若くしたかったのだ!)、妻に無下に拒まれてしまったのだ。
「よい年して何を考えてるんですか?」と妻は言った。「全く。定年して色ぼけしたんですか。恥ずかしい。はやく自分の布団に戻ってください」
そう言われて恥ずかしいやら悔しいやら、すごすごと自分の布団に帰っていったのだが、それから妻は妙に優一と距離を取るようになった。よそよそしい。さっきも俺が病院に行くと言ったとき「行ってらっしゃい」の一言もなかった。俺が悪いんだろうか。いやしかし我々はこの歳であっても夫婦ではないか。釈然としない。釈然としない。
働いていたころは仕事があったんだ。やるべきことがあって、みんなが俺を頼っていたのに。もう一度仕事をしたいが。再就職先はパートタイムすら見つからなかった。いや、コンビニなどでは働けるかもしれないが。そんなところで働く俺ではないじゃないか。前職では役付きまで行ったんだぞ。
なのに今は誰からも相手にされない。まさか妻からさえも相手にされないなんて!ちくしょう。誰が食わせてやったと思ってるんだ。
傷ついた自尊心から毒々しい言葉が溢れて、彼の心は、じゅくじゅく膿んでいた。顔つきもまるで真っ黒になっていて、社会や家族から用無しになった自分を、苦々しく感じていた。
息子連中は、金の無心にしか実家に帰って来ないし。「父さん実はローンがね」と隆のやつは正月早々言いやがった。俺はそんな金ないぞと言ったが、妻の義子は、出してやれと言う。なし崩しで金を払ってやったが、住宅ローンくらい自分の責任で払わんか。いつまでも親に甘えやがって。
隆に払ったら次は光一がその話を聞きつけて、「なんだよ。隆兄さんばかりずるいよ。俺だって大変なのにさ。母さんからも父さんになんとか言ってくれよ」と始まった。それでほだされた母さんは、光一にも同じように援助してくださいと頼んでくる。俺は嫌だと突っぱねてもずっとうるさく言うもんだから仕方なし光一にも金を払ってやった。
あいつら金を払ったその場では感謝して「お父さんありがとう!がんばるよ。ありがとう」と言っときながら、それから一向に顔すら見せない。孫を泊らせたりとか、週末に遊びにくるとかさっぱりしない。光一と隆の嫁たちは、金をせびっておきながら、俺たちのことが嫌いなんだ。俺は昔聞いたことがある。光一の嫁の百合子が孫の勝に向かって「じいじとあんまり話しちゃダメよ」と言ってやがった。どういうつもりだ!怒鳴ったら、百合子は「いえその、だって。そんなふうに怒鳴るから子どもの教育に良くないんです」と言った。孫の耳を両手で塞いで、俺を馬鹿にした目で見やがって。
俺はそのときも自分が恥ずかしくなって怒鳴るのをやめて、自室にこもった。趣味もない。孫も可愛がれない。息子たちは俺を嫌い。俺は、息子の嫁からあんなふうに思われていると思うとなにもできない。隆の嫁の美希も同じようなもんだ。俺を馬鹿にしてるのが目を見ればわかる。
俺は役員だったのに。いつのまにかこんなふうになってしまった。
そうこう頭の中で鬱屈した想いを巡らしているうちに彼は病院に到着した。ぷーんとした病院独特の消毒の匂いがした。診察券をだして待合室の席に座った。テレビはくだらないニュースを流していた。彼はテレビをぼんやり見ながら、例の家族への不満をずーっと考え続けた。あいつらは役員だった俺をバカにしている、と思った。テレビのアナウンサーが「はははははは」と笑った。
「こいつめも俺をバカにして!」と思った。
すると急に警告音が携帯とテレビから鳴り響いた。「ティントーン、ティントーン!」というわけのわからない、聞き慣れない音が病院中に響いた。田辺優一はその音を聞いて、心臓が跳ね上がった。テレビには緊急地震速報のテロップが映っていた。そしてグラグラグラグラと長い時間、ゆるやかに揺れた。
クリニック内の待合室で
「長かったね」
「そんなに強くはなかったが」
「震源地はどこだ?」
「え!?これ東北の地震だったのか!」
「こっちまで揺れたぞ」
のような会話が広がった。
地震はおさまったが、テレビが「津波が来る」というようなことを言い始めた。
大規模な地震が起きたのだと思ったが、田辺優一は自分には関係ないと想い、落ち着いて先ほどの家族への不満を再び考え出した。
しかし病院の院長が出てきて
「皆さん、ごめんなさい。実は私の実家が宮城なんです。今の地震で心配なので、今日は休院にして、被災地と連絡取りたいんです」と言ってきた。小さな町医者だがこのような職務怠慢には腹が立つ優一だった。
(おい!ただの地震だろ!仕事しろ!)と心のなかで言いたかったが、仕方ないのでおずおずと家に帰った。
病院の待合室のテレビが「大変な被害が出ているようです」と言った。
*
家に帰ると妻はテレビに張りついていた。また地震か。阪神淡路大震災以来、日本は免震、耐震に優れた住宅を作ってきたのだ、地震による被害など、まあ、すぐ復旧するだろうに。と田辺優一は思って自室に戻って昼寝をした。
数時間寝てから起きてリビングにいくと、妻がまだテレビニュースを見ていて
「東北が大変なことになりましたよ」と言った。妻の言う通り、彼の予想以上の大惨事が起きていた。テレビが津波の映像を放送していた。大規模な、高さ数十メートルという波が、ビルから家から、何から何まで飲み込んでいる映像だった。
田辺優一はその映像を見て面食らった。彼の今までの悩みも吹き飛んだ。彼の悩みなどは所詮、幸せな社会状況があるからこそ生まれるものに過ぎなかった。家族がいるから悩む。子がいるから悩む。社会的地位があるから悩む。ある程度健康だから不健康を恐れて悩む。しかし津波はすべてを飲み込んでしまう。命も文明も一瞬でガラクタになる。彼の悩みも飲み込まれてしまった。
彼は津波の映像を見て、何かを悟ったのか、降圧剤の薬をすべてゴミ箱に捨てて
「今までごめんな」と妻に謝った。