古屋の男 (SF短編小説)

ある男がいた。男は、山に引きこもって、読書と瞑想をして、残りの生涯を終えようと考えて、私財をすべてなげうって、山奥の古屋を購入した。備蓄食、食糧品を十年分買って、その他必要になるだろうと思われる日用品をしこたま買い込んで、それらすべてを古屋のとなりの倉庫にしまった。倉庫は巨大だったから、それらのものをすべて収納することができた。米、乾麺、トイレットペーパー、毛布、油など。
水は、古屋から歩いて五分のところに川があるので、そこから汲んでくる。火、ガスも使わずに、窯に火を灯しつづける。

古屋のなか、中央には、テーブルと椅子が置かれている。奥には火窯と台所、左端の壁ぎわにベッド、収納棚、テーブルの後ろに樫の木の巨大な本棚がひとつ、そのなかには、聖書、聖典、仏典、大辞典が並んでいる。古屋には、テレビもない。電話もない。パソコンもない。

これからの十年間は、誰とも会わずに、ひたすら読書と瞑想の生活がはじまるのだ…男は決意をもって、瞑想の生活をはじめた。

そして、一年がすぎ、二年がすぎた。古屋のなかでの生活は単調だったが、男の精神は溌剌としていた。朝起きて、祈り瞑想し、夕暮れまで聖典を読み、夜間は瞑想をする。食事は、お腹が空いたときに少量を食べるだけ。男の二年間は、毎日それだけの繰り返しだった。じょじょにこころが、俗世をはなれて、悟りに近づきつつあるような、実感があった。手応えのなかでの生活だった。
この二年間、彼を訪ねる者はひとりもいなかった。彼はずっと一人だったが、聖典があるのだ、寂しくなどなかった…

その日も男は、瞑想をしていた。昼の二時ごろだった。瞑想中、こころが解放されていくような喜びを感じ始め、いよいよその喜びさえも捨てて、さらに深みに入ろうとしていたとき、突然、玄関を、ドンドン、ドンドン、ドンドン、何度も叩く音がする。何事か、男の瞑想の集中力は、切れて、喜びも沈み、解放もなくなり、五感・感覚・感情の世界にもどってきた。
だれが玄関を叩いてるのだ?猪か?熊か?など考えていると玄関の外から、
「こんちは。免疫促進センターの者です!」とがなり立てるような声がした。
男は玄関の扉を開けた。そこには、宇宙服のようなものを着込んだ男たちが三人立っていた。
「なんの用ですか」と古屋の男が言うと、宇宙服を着た男の一人が
「はい、こんにちは。我々、免疫促進センターの者です。注射が義務化されたので、打ってください」と言ってきた。
「なんですか、注射って?」
「注射は注射です。世界的にウィルスが大流行しています。感染防止、免疫促進のために注射を打たねばなりません。我々はあなたに注射を打ちにきました」
「それなら必要ないよ。俺はね、ずっとこの古屋で、人と一切会わずに暮らしてきたんだ。買い物も行かない。働きもしない。友達とも会わない。誰にも迷惑をかけないんだから、そんな注射はいらないよ。帰ってくれ」そう言って古屋の男は、玄関の戸を閉めようとした。しかし、宇宙服の男は、玄関の扉の隙間に、足を滑り込ませて、扉が閉まらないようにして
「注射は義務ですから!」と怒鳴った。
「義務もなにもいらないんだよ」古屋の男は、宇宙服の男の足を蹴っ飛ばして、無理やり扉を閉めようとしたが、宇宙服の男たちは、三人がかりで、無理やり扉を開けようとしてきた。古屋の男の力では敵わずに、扉を開けられてしまった。
古屋の男と宇宙服の男たちは、古屋の庭先で向き合うかたちになった。
「あのねえ。義務もなにも俺は世捨て人ですよ?」
「世捨てもなにも関係ありません。義務です。全く。あのねえ。今の世の中は二年前から流行しだした未曾有のウィルスの感染拡大で大変な時期なんですよ。我々の格好を見てください。みんながこの防護服を着て、注射を打って感染を食い止めているのです」
「なに?そのおかしな、宇宙服みたいな格好は、感染を食い止めるためなのかい?」古屋の男はおかしくなって言った。
「この格好は、エチケットです。マナーです。任意です。しかし、みんな、防護服を着るのです」
「顔がまともに見れないじゃないか」
「だから感染を防げるのです」
「ほんとに街ではみんなそんな格好してるのかい?」
「街だけじゃなく、田舎でもです」
「おかしな世の中だねえ」
「おかしいのはあなたです。感染対策をしないのは異常者ですよ」
「だって我が家にはテレビもスマホもないもの。ウィルスが流行ったなんて知るはずないだろう?」
「とにかく!我々はあなたに注射を打ちにきました。義務です。命令です。腕を出しなさい。注射を打ちます」
「やだよ」
「憲法は変わったのです。あなたに人権はないのです。これは命令です。はやく!」
そう言うと防護服の男ふたりが、古屋の男を羽交締めにした。古屋の男は動けなくなった。
男とはなしていた、防護服の男は、手持ちの銀色のアタッシュケースを開いて、中から注射をだした。古屋の男は肩のところまで袖がめくられて、腕があらわになった。
「やめろ!やめろ!」男はあばれて抵抗しようとしたが、防護服の男たちの力は強すぎて、身動きひとつ取れなかった。
「義務です。法令です。政府からの命令です。製薬会社の善意です」と言いながら、注射針を持って、古屋の男の腕に、注射を打った。
激痛が走る。
「痛い!痛い!腕が痛い!」
「副反応です」
途端に身体中がだるくなって、めまいがはじまった。
「おい、なんだかおかしいぞ、この注射。だるい。めまいがする。腕がものすごく痛い」
「副反応です」注射を打ち終わった男たちは、一仕事終えて、ふぅーと言って、防護服越しにニコニコし始めた。
「これであなたもウィルスにかかりませんよ。良かったですね」
「おい、具合が悪い。変な汗がでる。助けてくれ!」
「副反応です。では我々はこれで」そう言って防護服の男三人は、サッサと引き返していった。

数日後、その古屋から、男の死体が見つかった。死体には、身体中に斑点ができていて、顔は苦悶に歪んでいた。しかし、男の死体を検査してみると、流行りのウィルスに感染していなかった。免疫促進センターの職員は、男が感染していなくて良かった、やはり注射はとても有効であると一安心して、また今日も、公共衛生と人々の免疫を守るために、注射を打ちにいくのだった。

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