古本屋 (短編小説)

古本屋のレジのなかに、書架台が四つ、作業台が一つ置いてある。背が高い書架台は、三段組みになっていて、一番下の段には重たい本(学術関連の箱付きの本ばかり)が沢山入っていて、一番上の段には文庫など比較的軽い本が十数冊入っている。真ん中の段には、軽くも重くもない程度の本が入っている。作業台に十数冊の本を積み置いて、汚れや書き込みの確認をして値札を貼っていく。
文庫は百円の棚に入れていく。あるいは二百円の棚に。絶版になっている文庫本は、ビニルで包装して、値札シールを貼って高価な本を扱う棚に仕分けていく。
本のかびた匂いがジワリジワリ鼻のなかに。学術書。『マルクス主義とキリスト教の融和』という本に書き込みがないか確認する。
書き込みを発見する。

『マルクスは基督を知っているのか。基督はマルクスを知っているのか。』七十八頁の下部にそう書いてあった。

果たしてこの読者は何を思ってそれを書いたのだろう。私には関係のないことだが…あくびをする…
作業台には私のノートも置いてある…そのノートに

『マルクスは基督を知っているのか。基督はマルクスを知っているのか。』と書き込む。

私の趣味は、古本の書き込みを、自分のノートに書き写していくことだった。書き込みのコレクション。以下は、私のノートの一部である:

『地下に降りる』
『プラトン主義が日本をダメにした』
『焼肉。牛肉300g』
『和くんへ。たくさん学んでくださいね。この辞書をしっかり引いて、立派な大人になるように。』
『残念だ。残念だ。こんな恋愛がしたかった!』(この書き込みは本のページの空白いっぱいに堂々とした赤文字で書き上げられたものだっだ!)

以上は今日の午前中の古本の仕分け中に発見した書き込み群である。それらをつなげて、こころの中で物語を組み立てていく。

以下は私の心の中で作り上げた物語である:

地下に降りるとプラトンという名前の三匹の牛がいた。その牛は焼肉になる運命を背負っていた。
「この牛たちが、ゲップばかりをするから、地球は温暖化なのだ」肉屋の主人が言った。
「定期的に肉を食べねばなりませんね」客が言った。
炭火と網の準備は完了していた。焼肉をいつでも開始できる。しかし、プラトンたちは、まさか自分たちが焼かれることになるなんて思ってもいなかった。純朴な顔でモオオオと泣いた。

和くんは『純朴』という言葉を辞書で引く。しかし見つからない。和くんの母親は和くんを、ピーチクパーチク叱っている。
「なんでこんなのもわからないの?」お母さん。
「ごめんなさい」和くん。
「さ、し、だから、もっと前を引きなさい」お母さん。
「はい」和くん。
「ほら!前に戻りすぎ!もっと後!」
「はい」
…こうして和くんは、焼肉ばかりを食べる大人に成長して、プラトンという名前の三匹の牛たちは、焼肉にされてしまって(なんて可哀想なんだ!)、和くんは、大人になってもまともな恋愛もできずに、親にいじめられた日々を嘆いては「毒親のせいで自分は何も達成できずに死んでいくんだ」と子供部屋でウジウジしているおじさんになった。
和くんは、泣く泣くマルクス主義にはまりながら、キリスト教にも傾倒していったが、最後まで母親を怨みましたとさ。

以上が私の心の中で(妄想)によって作り上げた物語であった。そして私の甥っ子の和幸は、私の姉の息子であるが、姉はずいぶん教育ママだった。上の物語と似たような事態にならなければ良いが、と私は思った。

古本の汚れをヤスリで落とす。ややきれいになる。

「あちいあちい」と言いながら客が一人入ってきた。
「暑いですね」と私。
「なあ」と客。
「中世の和歌の本、いくつか入ってましたよ」
「ああ。じゃ地下見させてもらうね」
「はい」
そう言って客の禿頭の中年男は、ずこずこ地下に降りて行った。客は、白いティーシャツと鼠色のズボン。背中と脇のところに汗がにじんでいた。

横を見ると女学生が漫画本を立ち読みしていた。私はあくびをした。女学生は、三つ編みをしていた。私はノートに

『三つ編み。セーラー服。全体性に埋もれた個性。どのような美少女であっても、どのような美男子であっても、彼らは、学校という津波に、埋もれていく。…私は全体性に埋もれた個性を、今まさに、取り戻そうとして、本屋の店員をしているのかもしれない。
そのための書き込みのコレクション。そのための状況筆写。あゝ文学により取り戻されていく我が個性…」

と書いた。すると怒りが湧いてきて、その文章の上に、大きく力強く赤色のボールペンでバッテンを書いた。三つ編みから、我が個性に向かって赤い線が走る。さらにもう一本赤線を入れてバッテンを完成させる。こんな駄文を書いていてはいけない。
どうにかして次の小説は面白いものを完成させなければいけない。古本屋でのバイトで、どうやって個性を取り戻せるというのか。

お姉ちゃんは、甥っ子の和幸を私に近づけさせない。姉が和幸と義兄さんを連れて実家に帰ってくるといつも「お母さん和幸を健治(私の名前だ)に近づけないようにね。教育に悪いから」と私の母に言う。
「おいおい。和子(姉の名前)、あんまり健治くんのこと言うなよ」気をつかったような風の顔をして、義兄さんが言う。(姉さんにそう言わせているのは義兄さんなんじゃないの?)と私はこころの中だけで思う。
和幸は「おじさん、こんにちは」とぺこりと頭を下げる。和幸はかわいいやつだが、こんな親に育てられたら性格が歪んじまうんじゃないかと思った。我が姉ながら嘆かわしいことだ。

私は社会のことはわからない。しかし、姉よりも良い教育を受けているから、和幸の家庭教師くらいはしてあげても良いのだが。姉はピーチクパーチクと口うるさく和幸をしつけている。しかし、そんな教え方じゃ和幸はいずれ勉強を嫌いになるだろう。姉は私よりもずっと勉強ができなかった。和幸を厳しく教育することで、勉強ができなかった過去への憎しみを解消しようとしているように見える。自分の頭の悪さに対するコンプレックス、やるせなさを、和幸を賢くすることで、克服しようとしているように見える。

私には誇れる程の学歴はないが、教養はあると自負している。(誇れなくとも、学歴だってそれなりにはある。それに学問を愛している。)…しかし私が和幸に勉強を教えようとするのを姉はとても嫌がる。私が教えたんでは、憎しみを解消できないからだろう。満たされずに育った者たちが親になると、子育てによって、憎しみを解消しようとする。姉も私の母親も。

お姉ちゃんはお母さんにそっくりだった。顔や体型は似ていないのに、まるでその親子の精神構造は、生き写しのようだった。母は、姉を使って、憎しみを解消するために子育てをしてきたから、姉は母を憎んでいた。そして姉は和幸から憎まれようとしていた。

私は姉も母も父も誰のことも憎まなかった。憎しみは何も生まない。頭ではわかっていた。頭では誰だってなんでもわかってしまうのだった。

古本屋の匂いがするからだろうか。本のかびた匂いが鼻をくすぐる。私はこの匂いが好きだ。女がつけている柔軟剤の匂いが大嫌いだ。私は古本の匂いが好きだ。

書き込みを新たに発見した。

『命の組み立て。誰かの話題。私の問題。』

それを自分のノートに書き写していく。

『命の組み立て、という意味では、組み方を、ちょっと失敗しちゃったな、和幸も俺も。』

とコメントを書いてみた。このコメントには赤ペンでバッテンをつけなくても良いや。なんとなく洒落てるような気がした。

さっきの客の禿頭の中年男が、地下から古本一冊持って上がってきた。その本の題名には『中世和歌の研究』と書かれていた。
「良い本あったよ」
「良かったすね」
「一割引券ね」
「はい」
「…」
「袋入れますか?」
「うん。お願い」
「割引して二千七百円です」
「はいよ」男は千円札二枚出して、小銭を取り出して、
「あ、十円ねえな。チ!」と舌打ちして小銭をもう一度財布にしまって、千円札をさらに一枚取り出した。
「三千円からですね。はい三百円のお釣りっす」
「どうもね」
「はい、ありがとうございました」
そう言って男は本を持って帰って行った。きっと暑い暑いとまたうだっていることだろう。古本屋のなかはジメジメしているが、外からの光はもう夏のようだった。今年は梅雨は来ないのだろうか。
このジメジメした古本屋をさらにジメジメさせる梅雨が、実は好きだった。紫陽花の花も好きだった。
お姉ちゃんが許してくれれば、紫陽花の花を見に、和幸と一緒にドライブしたいな、私はそう思って、さらに古本の仕分けと、古本への書き込みの発見、それの書き写しをひたすら進めつづけた。
バイトの終わる時間まであと五時間もあった。平日のお昼時、人は少なかった。
三つ編みの女の子は不登校かな。私も不登校だった。でも今は古本屋のバイトをバックれないで続けているのは、ずいぶん進歩したんじゃないかな。文学賞は取れないし、姉は和幸を私に近づけさせないけど、少しずつ私も進歩してるんじゃないかな。
マルクスはキリストを知っているのか、キリストはマルクスを知っているのか、そして私は一体だれを知っているのか…誰かの書き込みは、私の問いかけになっていく。夕暮れまでたっぷり時間がある。
ゆっくりで良いから仕分けて行こう。それだけ一生懸命がんばろう。前向きにノートに書き写しをして、メモ・コメントも増やしていこう。
夏の陽射しを見つめているとそんな気分にさえなっている自分がいた。
そうだな。
次の小説の書き出しは、
「私は人生を知っているのか。人生は私を知っているのか。」にしよう。
そして書き終わらない小説にずっと夢をはせていれば、人生が私に追いつくことはないのだから…

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