いずれはまた (回想)
たんぽぽの花が空き地いっぱいに咲いている。一部は真っ白の綿毛になっている。茎を折ると、すこしべたべたする、たんぽぽの匂いのする汁が手につく。ごしごしTシャツの袖で指をしごいて、汁を拭きとる。花の匂いを嗅いでみる。たんぽぽの鈍臭くてやさしい甘い匂いがする。
「ねえねえたんぽぽって食べられるよね?食べていい?」と母に聞くと
「洗って茹でないとお腹壊すからダメ」と母が言う。お腹を壊すのは嫌だし、母親の言うことなので、たんぽぽを口に入れるのはよした。
空き地右がわの斜面にはつくしがたくさん生えている。
「つくしも食べられる?」
「食べられるけど洗って茹でないとね」と母が言う。
「ねえねえ、つくしとたんぽぽ食べたい!」とはしゃぐ。
「はいはい」と母は言って二人してたんぽぽとつくしを摘んで手さげ袋のなかにどんどん入れていく。熱心に摘みつづけていると
「もう十分よ。おしまい。そんなにとっても食べきれないし、つくしさんもたんぽぽさんも可哀想でしょう?」と母がたしなめた。
「うん!」と元気よく返事をして、手さげ袋のなかにたくさん入った野草を見てよろこんだ。
自分で収穫した草を食べるというのは、子どもの僕にとって、とてもロマンチックなことだった。原始的で素朴で楽しい。母が楽しそうに僕を見つめているのが楽しい。
子どもは大人の庇護のもとで伸びやかに命をたくましくする。大人もそんな子どもを見て日々の活力を得ていく。守るべきものがあるから、大人は一生懸命に生きられる。
帰り道、狭い坂道の右がわに、子どもにとっては大きな土手がある。そこにもまたつくしとたんぽぽと春の草花が茂っている。土と春のにおいがする。日差しも春だ。ぽかぽかしながら母と手をつないで、土手の向こうの家々を見る。
今でも目をつむると見えてくる。家々の風景。土手や空き地。
なくなってもなくならない。コンクリで埋められてアパートが建ったあとにも、いずれはまた。あのときの土手と空き地から、家までの坂道を母の手に引かれて歩いていきたい。春がくるように幼少のころに戻ってゆっくりゆっくり歩いていきたい。いずれはまた。