観察者

「ユダと提婆の末裔なんですよ僕は」男は言った。「もしイエスの時代に生まれたらイエスを裏切って磔にするような奴なんです。釈迦の時代に生まれたら釈迦を毒殺しようとしたでしょう。極悪な性質があるんです僕には」
コンクリの灰色の壁はうんともすんとも言わなかった。
「いや、だから」男はつづけた。コンクリの壁はあくまで無言だった。観察者は、男が喋りつづける様子を見て、この男はやはり気が狂っていると思った。
「そう!そうなんです。赦しの機会はあった筈です。ですが自ら赦されることを拒むんですよ。ええ」
無言の壁。
息を呑んで見つめる観察者。
しゃべりつづける男。
鉄の机。がっしりしている。背もたれに青の革張りの椅子。机の上にはイルカの人形が置いてある。
カーペットはねずみ色。
部屋の隅に置かれた観葉植物のポプラが腹をよじるように枝を震わす。空調の扇風機のせいか。窓は開いていないのに。
「おいおい。暴れないでください。頼むから」男が言った。「僕だってね。本当はわかってるんです。懺悔が大事だって。ああはいはい。エアコンですね。しかし僕は持ってないんですリモコン。暑いのは我慢してください。…ち!蚊がいるみたいですねえ」
観察者は、画面越しに男の様子を見つめている。
「蚊。今ね殺そうと思いました。はい。そうです。殺生をやめられないんです。極悪でしょ?罪から離れられないんです」男はそう言って、椅子に座りながら、腕を真っ直ぐ頭上に伸ばして、背伸びをした。「うぅぅぅ。伸びる。伸びる」
観察者は鼻の中が痒くなって鼻をほじったら、強くほじりすぎて血が出てきた。「ティッシュ。ティッシュ」その間も画面を見逃さなかった。イルカの人形が倒れた。画面に目を外さないようにしながら腕を伸ばしてモニターの奥にあるティッシュをとって、右の鼻の穴に突っ込んだ。どうせ無駄話独り言を延々話しているだけなんだけどね。観察者は青の背もたれの椅子のうえでぐぅぅぅぅと伸びをした。
依頼人からは「勤務時間中はモニターの中の男を片時も目を離さないで観察し続けてください」と言われていた。見続けなければいけない。なぜなら観察者もまた依頼人に観察(監視)されていることを知っていたから。
監察室には監視カメラが(少なくも3台以上)あった。そのカメラから依頼人(又は依頼人の雇った、観察者を観察するための観察者)が観察者を観察しているのだ。
「どうせ俺も観察されてるのさ」モニター越しに観察者も独り言を言ってみた。もちろん無反応である。誰も彼の独り言に応える者はいない。しかし見られている。見られ続けている。
観察対象である、モニターの中の男は、壁にだけ話しかけて、壁を見つめている。モニターの中の男も、しかし、もしかしたら、壁の先に誰かが見えていて、それを観察しなければならない義務があるのかもしれない。でなければ、あれだけ熱心に灰色の壁を見つめ続けることなどできないだろう。壁。壁に映った観察対象。入れ子構造に観察し続ける者たち。
「はいはい。ごめんなさいね。そうですよ。僕はキリストを売ったんだ。たったの数百円でね。そして僕が仏陀の僧団を分裂させたんです。…懺悔すれば赦してくれますか。一体どこに懺悔すれば良いですか」観察対象の男が話している。
観察者は
「そんなに懺悔したいのか。なら俺だ。俺に懺悔しろ。なぜなら俺がお前を見ているからだ」と言った。もちろん観察者の言葉に反応する者は誰もいない。或いは監視カメラ越しに、観察者を観察する観察者が、独り言を言っているかもしれない。
訳が分からなかった。観察者は、自分まで気が狂ってきているんじゃないかと思って不安になった。
しかしキチガイは自分で自分をキチガイだとは思わないだろう。だから彼はキチガイでないだろう。そう思った。
観察対象の男は自分をキチガイと思っていないから、キチガイなんだ。
その時モニターの映像がぶれて、音声にノイズが入った。ぶぶぶぶぶ…ぷつぷつ、ぷつぷつ…音声に異音が混ざっている。しばらくすると映像と音声がふたたび安定した。
「はっはっはっはっは」観察対象の男が壁に向かって爆笑していた。「そうか!そんな簡単なことだったんだ。どうして気付かなかったんでしょうね。ええ!僕はユダでも提婆でもない!そもそも罪など犯していなかったんです!」
観察者は、男を見つめている。
「そう。僕は無垢なんです」
観葉植物のポプラの葉っぱが数枚散った。
男は頭を突然抱え出して哀しそうな顔になってしまった。気付きたくはない真実に突き当たってしまったようだった。
「…原罪からは逃れられないんですかそうですか。可哀想な僕。あくまであなたは僕を罪人にして追いつめるわけだ!」
観葉植物のポプラの枝がしなってよじれて笑っている。
観察者は(俺の目、どうにかなっちまったんじゃないか)と思って少し目をこすった。鼻血は止まったから、鼻の穴からティッシュを取り出した。一体自分の仕事は、何をやっているんだろう。手取り15万円。土日祝日は休日。昇給なし。依頼人の顔は…うろ覚えだった。依頼人の顔。依頼人の顔。依頼人の顔…

そういえば、画面のなかの男と依頼人は似ているような気がする。観察者ははじめてそのことに気づいた。そうだ!このモニターの画面に映っている男は、依頼人だ!いや、多分。…そうかもしれない。そうでないかもしれない。だって依頼人が俺を観察していなければ、誰が俺を観察していると言うんだ?俺も誰かに観察されていなければならないのに、目のまえにいる、壁に向かって話し続けているキチガイが、俺をまさに壁越しに観察しているとしか考えられないような。

気が狂いそうになって、観察者はペットボトルのお茶をガブガブ飲んだ。ごっごっごっごっご、という音が、観察者の喉から聞こえて、耳のなかに留まり続ける。なんてぇ音だい!すげぇ音だな。おい。

今、もしかしたら、俺も無意識に独り言してたかも。ちょっとやばいな。このモニターが壁だったら、まさにこのキチガイの男と同じじゃねえか。

大体悪趣味じゃないか。壁の男の部屋と、観察者の部屋が、全く同じ構造になっているなんて。同じ広さ。同じ椅子。同じ机。同じモニター。モニター?男の部屋にモニターなんてあったっけ?同じ装飾物。同じ灰色のコンクリの壁。ねずみ色のカーペット。観葉植物のポプラが右端の同じ位置に置かれている。全て同じ!それに、極めつけは、モニターの男と観察者は同じ服を着ているんだから!

観察者は、ぶつぶつ話し続けていた。壁に話し続ける男もぶつぶつ続けていた。

いったい誰が赦されるのかサッパリわからなかった。誰が誰を観察しているのかもわからなかった。目的も不明だった。

しかし、そもそも、あらゆることに目的が必要なのかも分からなかった。とりあえず9時から5時までモニターをみつづけるだけで月に15万円も貰えるんだ。良い仕事じゃないか。どこかのだれかの役にもきっと立ってるんだろう。自分が何をしているのかわからないで、みんな生きているんだ。
殊更罪に縛られる必要もない。目の前の仕事を坦々とこなせば良い。

「そんなことないぞ!カルマはお前を追ってくる!ずっと!ずっと!追ってくる!」モニターから男が言った。

こいつ俺に言ってるのか。

「そうだ!お前に言っている!悔い改めろ!悔い改めろ!」

なんで俺の考えてることがわかるんだ?

「罪から離れろ!罪から離れろ!お前が次のユダになる!罪から離れろ!」モニターのなかで、男は壁に向かってそう怒鳴り続けていた。怒鳴るのをやめさせたくても、観察者は、観察する以上のことは何もできなかった。観察する以外なんの権限もないのだから。

「罪から離れろ!罪から離れろ!お前が次の提婆になる!罪から離れろ!」

果たして俺の観察という仕事が罪なのだろうか。悪業なのか。知らん。俺は俺の仕事をしてるだけじゃないか。そんなに責めないでくれよ。

「部分が割れて全体になった。損なわれてはじめて完成するものもある」モニターの中の男が言った。「うぅぅうぅぅぅん。それはそうだ!」男はひとり納得していた。

(部分が割れて全体になる。損なわれて完成してしまったのか。不思議な時間だな。観察していると、観察している対象と一体になっていく感覚があるよ。)この発言は観察者が言ったのかモニターの男が言ったのか判別できなかった。

完成した。
観察を始めてから987日目のことだった。客体(対象)と主体(観察者)がはじめて一体化した日だった。

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