或る男の人生

「きっと一人ぼっちになるんだろうなと、いつもさみしい気持ちがつきまとっていて、そこから生じる気分の波を、なんとか消そうとするように、毎日、毎日、音読しているのです。」

「そもそも宇宙の始まりは…。」

「説得力がないんですよ。もう良いんです。いろんな意見は聞き飽きました。ただ決まっているのは、どこまで行っても、なんだか寂しくて、切なくて、そして、すぐに終わりが来てしまうと言うことなんです。終わりが、来てしまう、と言うことなんです。」

「そもそも宇宙の終わりは…。」

「はい、はい。いろんな説がありますよね。やめてください。やめてください。宇宙が終わるまでに、一体、わたしは、何度終われば良いんですか。」

運動靴は、泥水のせいで、白から茶色になった。そのなかの靴下はぐしょぐしょだった。
(変態野郎は、女子高生のあたしの靴下が、欲しいんだろうよ。とくに、汗と泥でよごれた靴下に、一万円でも二万円でもはらうんでしょうよ。)しかし彼は女子高生ではなかった。分裂した想念のなかに、女子高生の人格らしきものが、浮遊している。
それが、そう思っただけだった。
しかし、リアリティの求め方を、五感は否応なく間違うことはなく、足裏の水に濡れた不快を、延々と脳に伝えている、脳の中の例の令嬢は、(汗と泥でよごれたこの靴下は、一万円でも二万円でも払うんでしょうよ。)とさらにつぶやき続けているが、彼女の存在は、足裏の不快感ほどリアリティがあるわけじゃなかった。
雨はさらに強くなる。横殴り。縦殴り。(ああ!下着が、透けてしまう。)例の令嬢がさけぶ、脳の一部が裂ける。
(俺って一体なんなんだろう?)例の令嬢或いは女子高生ではないところの、より肉体に近い位置を占めているアイデンティティで有るおっさんが、ぼやいてみた、そりゃそうだ、女子高生は、幸せだ。
(わたしは女子高生だけど、身体はどうやらおっさんみたい。でもおっさんにも成りきれない。だって、わたしは、いまだに実家暮らしの無職の豚さんだから。)と例の令嬢で有り女子高生で有るところの人格が、おっさんの位置を客観的に見つめて、自身に対する適切な評価を下した。

「そうすると、手続きはどうすれば良いのでしょうか?」

「はい。女子高生になりたいんですね。」

「問題は肉体的な性別と、年齢だけです。本質は、わたしは女子高生ですので。」

「肉体と年齢を解決したからと言って、それだからと言って、だからと言って、何かと言って、詰まるところ、はい、何も解決しませんよねえ。だってこの世界は不可逆なんだから!」

そこでその男は、靴を脱いで、ぐしゃぐしゃの靴下も脱いで、その靴下二足を天地に捧げるように、右肩と左肩にそれぞれ置いて、じんわりとシャツ越しに、靴下に沁みていた汚水が、肩の皮膚に浸透していくのを、感じてみた。

なんだかもうはりつめていたものが、切れはじめていた。

そして男は泣きながら「わたしは女です。わたしは女です。」と繰り返しながら女子トイレに侵入すると、すぐに警察に通報されて逮捕された。
次の日の朝刊の事件欄の片隅の片隅に、世界の片隅のことのような、男の事件が記載されていたが、犯行の動機は、男の供述によると、「男は女で有る。さらに女子高生で有る。本質は現象に先立つのだ。」とのことだった。

想念の分裂していく過程で、だれひとり理解者のいない孤独の檻が、たくさんの人格を男の中に形づくり、閉じ込めていたが、其れ等の複雑怪奇を、警察も世間も理解しなかったし、理解しようともしなかったから、男は唯の変態として扱われた。

男は、ただ女性として、女子高生として、「男は女で有る」という永遠の誓いと共に、女湯に入り、女子トイレで用を足してみたかった、それが、ねじれていく自己と折り合いをつける唯一の方策なのだと、男の全人格が思い込んでいた、そのために、男の人生は台無しになったが、実はもう最初から台無しだった。台無しで有ることを、形にして示しただけだった。

「透明な紅茶と黄色いレモンティを呑むんです、ええ、レモン、檸檬、れもん。はい。世間の皆さん御免なさい。死刑にしてください。宜しくお願いします。終わりたいんです。」

「終われないんですよ。」

「形のないものに形を与えたいじゃ、ないですか。」

「そりゃ我儘だ。誰しもが、思い通りに行く訳ないじゃないですか。」

「そうですね。こんなに簡単に台無しになるなら、早く台無しにすれば良かったのに。」

「踏ん切りだよね。結局は。」

深層にある破滅願望は、稚拙な妄想と手を結び、情念と自己正当化に彩られてゆく。本当は男は、女でも、女子高生でもなく、男だった、確実に男だった、ということを、男はいつまでも、いつまでも、自己欺瞞によって隠蔽しつづていった。

「小さな芽をつまないで、咲かせるままに、グロテスクに咲かせてしまった、地獄の桜が、男の女に、満開です。」

「お花見には良い季節ですね。かしこまらないでけっこう。心配も要りません。ただ大旦那が、あなたに御入用だとか。はい、そうみたいです。」

男の母親は、泣いていた。男の父親は、ぶん殴ってやると息巻いていた。それらを想像すると、頭の中のたくさんの人々のお喋りは、ひっきりなしに加速して、心臓だけが沈黙していた。情動としての心臓は消えてなくなって、ただの出来損ないのポンプになって、血液を、汲み取り式トイレに落ちた汚物のように、滞らせている。その汚物のイメージが、頭の中の会話に、焦りと罪を与えつつ、男根的象徴に姿を変えて、鞭のように男の中の女を、見せしめとして陵辱した。

噛み終えたガムみたいにくたびれた人生が終わりながら心にはりついている。泣き虫だった、無垢の子どもは消えて、散漫で倒錯した、自己主張の結果としての性だけが薄ぼんやりと世界を支配している。ソドムとゴモラが泣いている。バビロンの末裔がおどっている。小さなことを疎かにして、粗大な全体が破壊されていく、その実例として、この男は、ここに、女になりきろうとして生きていた。政治的主張、人権擁護の化け物だった。化け物が化け物をさらに産み落としていく。複雑はさらなる複雑につながっていく。

確かなことは、何も無かった。

「犯行の理由は、社会のせいです。」

「はい、反省しています。」

「どこから反省すべきでしょうか。」

「堂々巡りですね。」

「その日は雨の日だったんですね。そして春の日でした。浮かれていたのかもしれません。理由はなにも有りません。いつものことなんです。」

「そうして救われることのない、唾棄すべき生き物が、四つ足の獣よりも、醜くなって、時間の海に沈んでいくようです。観察の結果としての、無秩序だから。」

頭の中のお喋りは、警察官の取り調べを受けて、徐々に、うつくしい反省に色彩を変調していった。生まれてきたことへの後悔よりも、これから先、一生をかけて、女子トイレ侵入により本物の女性たちを怖がらせて、社会を不安にさせたことを、謝りつづけて生きていこうと、希望に打ちふるえながら、男の目の前で調書を書いている警察官の拳銃を奪って、その場で死んでやろうかとも、まだまだ反抗的に考えていた。いつまでも、彼(/女)の想念はアクセルとブレーキを同時に踏み込んで、彼(/女)の心をバラバラにしていた。

「それにしても恥ずかしくないのかい?」警察官が言った。

「もちろん恥ずかしいです。反省しています。どうか死刑にしてください。この場で撃ち殺して頂いても構いませんよ。」

取調室にさえも、雨音が聞こえてくる。がやがやした警察官の濁声よりも、雨音を聞いていたかった。
四時半の夕焼けが、太陽の切れ痔からの出血のように斜に構えた鈍い緋色を窓に投げ掛ける。光という光、風景という風景を、窓が透過する、長引く午後の焦ったい陽射しが、目に痛かった。

「そういえば今日はわたしを罪に定めたあの書物を音読するのを忘れちゃったみたい。」女子高生が言った。

「おいおい、お前だけを罪に定めた訳じゃない。頭の中の全人類が罪に定まっているんだ。」頭のなかの男と、外側の男性性の男性が、罪深い顔をして、うなづいた。実際にそれは声として発声されたものだった。

「なんのこと言ってんだ?」濁声の警官が言った。

「こちらのことです。音読を忘れたんです、日課なんですがね、毎日、あてもなく、新聞の一面を音読するのが、趣味なんです。」

「明日の一面にはあんたの名前が載るだろうよ。」と警官が嫌味を言った。

「そうですね。罪人のリストとは、新聞のことなんです。」

「記者の連中も、ニュースを見る大衆も、いつか新聞に、罪人として、名前が載るでしょう。」と女子高生。

「現代の閻魔帳ですな!」誰でもない誰か。

厳重注意では済まないでしょう、と警官がごにょごにょ言ったような気がした。汗がふきでる。風が吹く。でもそれは風ではなく、換気扇のもたらした、人工の空気の振動に過ぎなかった。陽射し。それも人工かもしれない。

新聞紙は閻魔帳。

片栗粉でとろみをつけた女子高生の靴下。変態たちが一万円でも二万円でも買うだろう。

「目の前の現実は、それでも終わらず、いつまでも、いつまでも、警官と被害者が、僕を加害者に仕立て上げるんです。」それは閻魔帳に名が載った者たちの、言い訳であり、嘆きだった。

「つまらない人生になったのは、おかしな価値観を植え付けた、漫画とかアニメのせいでしょう。それらは、性的なものを誇張する悪魔の書物です。焚書すべきです。この男も焚刑に処すべきです。つまり火炙りです。」世間に擬態したフェミ野郎が頭の片隅のちょっとした不安を動機にしてペラペラ喋りはじめた。
フェミなんか大嫌いだ!大嫌いだ!大嫌いだ!
漫画とアニメでどれほど救われたか。新聞を読んで何度地獄に落とされたか!でも…子どもの頃、両親が新聞を読む子は立派な子だと言っていた。
それから毎日閻魔帳を音読しているのにいつの日からか母さんも父さんも僕を褒めてくれなくなった。褒められたいから一面記事を読んでいるわけじゃない。ただそうすることで、僕は「良い子」でいられると思ったから…。

責任転嫁は、両親と社会を天秤にかけて、言い訳の山ができ上がった。エベレストのようだ。オリーブの様だ。富士山だ。ヒマラヤだ。赤子だ。唐草模様だ。

「地球や宇宙のことを考えれば、人は蟻みたいなものですよね。」言い逃れたかったが、警察は事実しか聴かない。耳のない者と会話なんかできない。
耳なし芳一のはなし、好きだったな。
新聞が僕のお経の代わり。昨日の記事を誦じることができるんだよ。

「大谷選手、30号一番乗り!」と大声で言った。それは昨日の記事ではなかった、架空の記事だった。

「痴漢で四十代の大学教授を逮捕!」また叫ぶ。

警官は、自分の頭に人差し指を向けて、くるくる回す仕草をした。(くるくるぱあだな、こいつは。)という意味だった。

「はあ、長引きそうだなあ。こんなことで。」警官らしき人物が確かにそう言ったような気がしたが、男の認知は混乱を極めていたから、妄想と現実の線引きは、非常に難しくなっていた。夢見がちだからこそ、適応すべきときに適応すべきものへ適切に適応出来なければ、正気を保っていられないのだと、男と女子高生は、同時に意見を合わせるように思った。分裂していても、男は女子高生だったし、女子高生は男だったから。

「あ、はい。刑事さん。メルカリで、この靴下売ろうと思うんです。いちまんえんでも。にまんえんでも。詐欺ですかね、それって。」そう言って、ははははははははは、と女のような疳高い声で大笑いした。
警察官はうんざりしてハアと溜息をついた。悪い空気のように濁った臭いため息だった。歯槽膿漏に違いなかった。

…頭の中のお喋りに現実がまざるのか、現実のなかにお喋りがまざるのか、判別不能の闘いだった。様子見と失敗の編みの目に自らを閉じ込めているだけだったのに、遂に人様に迷惑になってしまった。法に背いてしまった。許して、許してと泣いてすがっても、閻魔帳に名前が載ることだけが確かだった。

やだやだ。ホント警官なんていやあねえ。警察ってだあいきらい。俺をこんな目にしたフェミ野郎もブッ飛ばしてやりてえ!あらあらつい言葉が汚くなっちゃったわね。反省反省、あたしは淑女な女子高生よ!本当に救いが必要なのは、あたしなのよ!でも救いたくないよねえ?こんな醜いおっさんを!

定職にもついてない、社会のゴミを!かわいい子猫が雨に濡れてみゃああみゃあああ泣いてれば、きっと「まあ!かわいそう!かわいそう!」とバカ女どもが駆けつけて、すぐに助けてあげるけど。
俺がさ。おんなじように雨に濡れてみゃああみゃああああ泣いてたって、誰も俺を助けやしない。醜いから。救いたいようなカタチじゃないから。汚いから。閻魔帳に名前が載ってるから!みんなから嫌われてるから!自分自身が自分を一番嫌いだから!

人はうつくしいものにしか手を差し伸べない。残酷でうつくしい事実。汚いもの、本当に力のない者は、見て見ぬフリです…ああ!女子高生はいいなあいいなあ。みんなに好かれてさ!俺は汚いおっさんだもんなああ。

きゃははははは、と女子高生は笑ったが、やっぱりおっさんの声だった。

「良い加減にしやがれよ!」と警官が怒鳴った。男は我にかえって、「はい!」と言った。そして小声で「すんません。ちゃんとします。」と言った。
警官は「うし。」と言った。もう夢心地ではいられない。現実の時間だった。警官の調書がどんどん事実で埋まっていく。成人男性が女子トイレに侵入して通報された、事実はそれだけのことだった。男は初犯だからきっと注意だけで終わるだろうか、それとも俺は女だ!心は女なんだ!って心から叫べば、女の子になれるかな。あの女子高生になって、女子校に通う事だって、できるのかな。

心は女、こころは女、こころはおんな、ココロハオンナ、ちゃんと主張しよう。今は、人権の時代だから、わたしのようなLGBTQは世界で一番偉いのだ。強い弱者が一番強いのだ。黙らせてやりたい、女だと言い張って、女湯に入ってやるぞ!むくむくと膨れ上がるものを感じた。

「おい聞いてんのか!」また警官が怒鳴った。警官野郎のお説教なんか耳に入らなかった。

「はい、すみません。ちゃんと聞いてます。」

「しゃんとしろよ。しゃんと。」

「…すみません。」

「まったく気色悪いなあ。変態だよ。あんた。」

「はい。すみません。でも僕、実は心は女というか…人権というか…」

「なに!?大ごとにしたいの?まだ言い張るの?反省してないの?気持ち悪い奴だなあ。」

「ごめんなさい。ごめんなさい。大ごとにはしないで欲しいです。反省してます。」むなしい空謝り。

正義の味方の説教がつづく。「え!無職なの?やっぱりなあ。見た目でわかんだよ。暇だからさ女子トイレ入るなんてバカなことするんでしょ。盗撮でもしたかったの?動機はなに?仕事探さないの?親御さん、もう結構な年でしょ?親御さんがかわいそうだなあ。少しは楽させてあげたいって思わないの?俺はあんたよりも三歳若いけどさ(お前の歳なんか知ったことかと心の中で突っ込む)、なんつうか、あんたさ、顔つきが幼いんだよな。やっぱ社会経験がないと顔が幼くなるんだよなあ。なんでちゃんとしないの?なんで社会に迷惑かけるの?」
さあ、もう一度空謝り。ごめんねごめんね反省してます謝れば良いんでしょ?

もういいよ。謝るからはやくこっから出してくれよ。謝ってるじゃん。初犯じゃん。家族には連絡しないでよ?なあ、頼むよ…あと机をバンと叩くのやめよう刑事さん。とっても威圧的だよそれ。

もう疲れたよ。人と会うの何年ぶりだろう。人って疲れるなあ。ああ、もう一生家から出ないようにしよう。それだけで良いからもう一度女子高生にならせてくれ。女が大嫌いだった。社会人も大嫌いだった。本当の弱者に生まれた自分が大嫌いだった。可視化されない弱者が本当の弱者だった。

やっと静かになった。反省の色がにじみ出ていたから。わたしってやっぱりか弱いよね?男の人は女の人を守らなきゃダメでしょう?

ご飯のときは奢ってね!だってあたしは女の子だもん。お金ちょうだいね。だって女の子だもん。差別は許さねえぞ。ブッ飛ばすぞ。

日差しがさらにまぶしい。取調べはもう嫌だった。

心が女であることが、醜いおっさんが救われて権利主張できるための、たった一つの手段だった。でももうそんな事はどうでも良い。いつか殺されるだろう。はあ。疲れたなあ。

…ピクニックに行きたいな。だって…

春の日だった。雨が降っていた。つよい、つよい雨だった。靴も靴下も濡れてしまった。自然に逆らっているのは、男が人生に最初から失敗したからだった。

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