高水準の女
女がいた。女の名前は、秋野裕子といった。仙台で最も偏差値の高い某国立大学に通っていたが、偏差値教育の弊害によって、彼女の美貌が損なわれることはなく、多少だけ人嫌いのする表情を除けば、非常に見た目の美しい女性だった。目は切れ長の奥二重で、瞳孔には、難関国立大学にふさわしい知的な輝きがきらめいていた。その目の輝きは、見方によっては挑発的に見えることもあり、ともすれば傲慢さに変質する可能性を帯びていたが、彼女は意図的に他者に甘えたり茶めっ気たっぷりの表情を作ることもできたし、そんなときの彼女の目つきは柔らかくなって、女性にはあまりふさわしくない知性のぎらつきが緩和されていたから、彼女は基本的には同性からも異性からも、蝶よ、花よと好かれていた。
彼女は、容姿や学力に関しては申し分なく正当な評価を他者から受けていたから、彼女の人格面を正当に評価できる男性を求めていた。「かわいいね」や「頭良いね」という褒め言葉は彼女にとっては、他者からかけられる、最も当たり前の言葉だった。しかし、どうも、人格面に関してはあまり褒められることが少ないように思った。彼女にかけられる数々の褒め言葉、「かわいいね」「きれいだね」「一緒に写真とろう」「知的に見えるね」「スタイルいいね」などと言ったもの、それらが彼女の美しさの証左であり、学力の高さに関しては模試の偏差値と大学の合格通知によって証明されている故に、彼女は他の人間よりも甚だ完璧なのだから、彼女の人格も相応に評価されて然るべきだと彼女は漫然と感じていた。しかし、そのことについては、あくまで感じているだけで、言語化して考えるには至らなかった。言葉にして考えてしまうのは、あまりにも浅ましい。彼女は自分のことを育ちが良く、一角の人物だと思っていたから、人格を評価されていないことを、僻みっぽくぐちぐち考えるのは、彼女のプライドが許さなかった。そんなことを考えるのは、あくまで私よりも水準の低い人々がやること。しかし、彼女は人に優しく、ボランティア精神にも溢れているのだが…なぜ評価されないの?笑顔も絶やさないしネガティブなことも言わない。悪口も(責められても仕方ない人間には言うけれど基本的には)言わないのに。など言葉にならない感情を堂々巡りに感じていた。
「ねえ。なんだかみんな人の表面しか見ないよね。内面も見てくれる人がいいな」と裕子は友人たちに言った。それを彼女の本音に即して言い換えると(学力、容姿の好評価に加えて、性格の良さでもみんなからちやほやされたい。だのにあまりちやほやされないのは気分が悪い)ということだった。
「まあ見た目しか見ない人は嫌よねえ」と彩音が言った。彩音は、高校からの同級生だったが、一年浪人しているから、大学では裕子よりも一学年下だった。見た目はパッとしない服を着て、スタイルもあまり良くなかった。彩音は裕子よりも明らかに格下の人間であったが、付き合いを考えてしまうほど格下というわけではなかった。あまり自己主張しないで裕子の話に相槌を打つ彩音の性格は、物怖じせずに思ったことを話す裕子にとっては、都合の良いものだった。その日も、学生で賑わう学食で、授業の空きコマに、女友達数人で集まって話していたところだった。ざわざわ前の方では眼鏡をかけて無精髭の生えた男子学生が数人いて、カント哲学の話を熱心にしているのを裕子は見たが、清潔感のない人間には容赦しなかった。
裕子は、
「なんだかさ前の座席の人たち、同じ学部の人たちだよね?」と言った。
「うんそうだね」美香が言った。美香は裕子ほどではないがそれなりに頭が良くそれなりに美しかった。しかし家柄の点では、彼女の親は仙台の老舗の中小企業の社長だったから、親が開業医である裕子と同じ程度であった。
「ちょっと不潔よね。もう少し見綺麗にすれば良いのに」と彼女は奥二重の切れ長の目をさらに細めて、声をひそめて言った。その顔は意地の悪い狐のようだった。
「そうねえ。ま、でも男子なんてそんなもんじゃない?」とあっけらかんと彩音は言った。
「まあねえ。ていうか今回の憲法の授業だけど…」あまり人を悪く言いたくなかった美香は話題を自然に変えようとしたが
「憲法で不潔な奴らを取り締まれば良いのにね。人権取り上げてさ」と裕子は美香を遮ってしつこくその話題に粘着した。狐から般若のように眉間に皺が寄っていたが、美しいと言えば美しい顔だった。
「あははは。憲法9条変えちゃう?」と彩音は笑って「てか憲法の授業むずいよね」と同じ学科の男子学生の悪口を言わないように彼女も話題をそれとなく変更しようとした。
「うちの学部にはマシな男いないよね。と言って別の大学は偏差値低いバカしかいないから話し合わないし。なんだか頭良いのも嫌よね。周りがバカに見えるし」彼女は何気なく思っていることを言ったが、彩音と美香にとってはどぎつい発言に聞こえた。
「実際、彼氏にするなら、医学部がいいな。私のお父さんも医者だしね」と彼女は言った。
「でも愛してくれる人が良いよ」と美香は言った。裕子は自分の考えに異を唱えられて、瞬間気分を害したが、その程度のことで不機嫌になるほど彼女は子どもでなかったから、不愉快さを表情に出すことはしなかった。
「愛ねえ。愛も絶対条件だし、そんなの言わなくても良いよね。愛されるなんて当たり前すぎだよね」と裕子は、自分の立場はしっかり守られるように、しかし、相手を否定しないように気をつけて発言した。しかし、どう言うわけか、美香はムッとした顔をした。彩音は美香がムッとしたのを見てとったが、裕子はそれに気付かなかった。裕子は鈍感ではなかったが、自分の発言が人の気分を害するなどあるはずもないと決め込んでいたから、涼しい笑顔で話を続けた。
「愛、というか気遣いもできないとね。日本の男性でちゃんとした気遣いやマナーを身につけてる人って本当にいない気がする。この前もね…」裕子は話し続けていたが、その話に対して美香は相槌を打たずに、ムスッとしていた。彩音はその微妙な緊張感に疲れて「お水汲んでくるね」と言って学食の給水器に空のコップを持って歩いて行った。
「人が話してるときに立ち上がって水汲みに行くって失礼だよね」何気なく裕子は言ったが、それに対しても美香は相槌打たなかった。さすがに裕子も美香の様子がおかしいと思ったが、おそらく彩音のオドオドした態度が気に障ったのかしら?としか思わなかった。美香はスマホを開いて、ぴこぴこ画面に何かを打ち込み始めた。裕子は(美香ってたまにこうやって不機嫌になるから付き合いにくんだよね)と思ったが、寛大な心で彼女の不躾を許して、自分もスマホを開いて、メール等誰かから連絡がないか調べた。
2
三好翔太は学食のテーブルに友人たちと座りながら、カントの話をしていたが、そんな話題はどうでも良かった。彼らの座席の向かいにいる、切れ長の目の、少し狐に似た、足の長い、同じ学部に通っている、名前も知らない女の隣に座っているのが、一学年下の加藤彩音だった。加藤彩音はニコニコしながらお淑やかに話していた。三好の横では長田がカントの定言命法がどうのこうのと講釈を垂れていたが、三好は、ただ加藤彩音に見惚れていた。
彩音は、しかし、おそらく、三好翔太のことを知りもしないだろう。しかし、三好は、彩音が物静かで心の優しい子であるだろうと推測していた。彩音とは一言も喋ったことすらなかった彼だが、彩音の控えめな表情や仕草などから、彩音の人格、性格、趣味趣向などの、彼女に関するあらゆる個人的な事柄を、想像力によって、既に知っているような気になっていた。三好は、何度も頭の中で彩音と会話していたから、現実では彩音にとって他人であるにも関わらず、勝手に彼女に強い親しみを感じるようになっていた。その親しみは、日ごとにむくむく膨らみ続けて、やがて深い愛情に変わっていった。
恐らく彩音の側で、三好の一方的な恋愛感情に気付くようなことがあれば、おそらく彼女は、恐怖を感じるだろう。重苦しい、根拠のない、恋愛感情ほど、恐ろしいものはなかったが、三好は、自分の愛情は純粋であるのだから、その想いによって彩音が身の危険を感じるだろうとは思わなかった。それに想いを伝えるなど、三好の引っ込み思案の性格を考えれば、できるはずなかった。ただ遠目からその女神を見つめ続けているだけで、彼の心は満足だと思おうとした(実際のところは、彼としては話しかけて現実でも仲良くなりたいという強い希望があったが、自分の希望が挫かれたら、しばらくの間ショックで立ち直れなくなるだろうから、絶対に話しかけることはしなかった)。
3
さて、三好が熱い眼差しを、裕子たちの方に送っていると、裕子は目ざとくそれに気づいて
「なんかさ、さっきからあの眼鏡(三好は眼鏡をかけていた)のモサイやつ、私のこと、ジロジロ見てるんだけど」と言った。
彩音は、「そうかしら」と言って、先ほど給水器から汲んできた水を飲んで、一呼吸ついた。美香はこころのなかで「また裕子の自意識過剰が始まったわ」と思って、スマホをぽちぽち押しながら、そのことをツイッターに愚痴った。美香のツイートの内容は「ああうぜー。自意識過剰女マジ無理だわ」だった。直ぐに、ふたつ、みっつのいいねがついて、美香は少し満足した。
「なんかさ。美香とか彩音にはわかんないかもだけど。あたしって昔から変な男にじろじろ見られるんだよね。なんかやだなー」そう言って裕子は鋭い目をさらに鋭くして三好を睨み返した。まるでメデューサのような目つきで、その視線をまともに浴びたら、気の弱い三好など、石のように固まって、身が硬直してしまっただろうが、しかし、三好は全く裕子の睨み返しに気づかなかった。彼の目は、あつく、つよく、やさしく、少しだけベトベト粘着するように、彩音だけを見続けていたから。
彩音の方はといえば、美香が機嫌を悪くしているのがわかって、なんとか場の空気を良くしようとつとめて、健気に、無邪気に、ニコニコしていた。穏やかな表情がうつくしいなと、眼鏡の三好くんはドキドキしながらそれを見つめている。三好のとなりで、カント講義に集中していた長田の声は、どんどんデカくなっていたが、三好の耳にはさっぱり入らなかった。しかし、そのほかの男子学生は、長田哲学に聞き入っていた。
「つまりね経験というものの中にさえ、アプリオリなる認識材料が潜んでいてだね、それをカントは、純粋理性批判のなかで、演繹的に、批判していくということをだね」長田はベラベラ喋る。その声は、裕子の耳にも入ってきて、裕子は(うるさいわね。食堂で騒がないでほしいわ。ブ男のくせに)と毒づいたが、彼女は淑女だったから、そのことを口に出さずに、こころの中にちゃんとしまっておいた。(悪口を言わないなんて、私ってやっぱり性格良いわよね?)と思ったが、そのことを彩音も美香も褒めてくれなかった。美香にいたっては、さっきから、スマホを弄り続けている。失礼にも程がある。
美香は、そのスマホの中で、裕子に対する愚痴を延々と書き続けていた。
彩音は子羊のようににこにこしている。
三好は彩音に心奪われている。
長田はまだまだ喋り続けている。
裕子は三好に見つめられていると思い込みつつ、長田の、隣の席にまで聞こえてくる、デカい声の演説講義に、苛ついている。
3
みながみな、学生食堂という同じ空間に身を置きながら、それぞれの想いと思考と自己認識の牢獄に囚われていた。誰が幸せなんだろうか。誰も幸せじゃないのかもしれない。しかし、少なくとも、自分を高水準と考え続け、多くの点で勘違い、思い違いをしている裕子に対しては、誰もが、彼女の自己認識の牢獄が壊されないように気をつかってあげなければならない。もしも裕子に「あなたは自分のことをちゃんと見れずに、人を顧みれずに、わがままで不幸な人ね」と言う人がいようものなら、裕子は烈火の如く怒り狂うだろう。裕子は、自分ほど、客観的に完璧な幸せを得ている人間はいないと固く信じ切っているのだから。