海に落ちた坊主
海は大時化だった。小舟は波のぶつかるたびにガタガタと揺れた。
「沈まぬかね?」船頭の親父に聞くと、歯の抜けた口をへらりと笑わせて
「なに。いつものことじゃ。」と言った。
「そうなのかね?」するとざぶんと波が来た。水飛沫で袈裟が濡れた。船頭は、櫓をぐいぐい巧みに操っている。
四方を見ても陸は見えなかった。ただ波と風が荒れているだけだった。霧がかって太陽も見えない。
「方向がわかるのかね?」
「わかるさ。」
舟べりにしがみついて海に投げだされないようにしていると、へっへっへと船頭の親父が笑ってやがった。
「歯抜けめ!」と憎まれ口を叩くと
「海に堕ちねえか、怖えのか。」
「黙れ!先ずは舟をちゃんと漕いでくれ!」
「…」
「返事もなしか」
行き先も方向もわからないまま、ぐるぐると海のなかをめぐっていると、船頭の親父が喋り始めた。
「娘が死んだでさ。」船頭が言う。
「…」黙って揺れる舟べりに身体を貼りつけていた。
「みごもってね。男に逃げられたんだ。」
「…」ぎくりとした。
「首吊っちまってな。腹の子どもも、娘も、おじゃんじゃ。」
「…」心の中で船頭と娘に謝ろうとしたが、心が邪魔をして懺悔が出来なかった。頭を丸めても、何にもならなかった。
「海が荒れるのは、死者が霊界で泣いているせいだという言い伝えがあるんじゃ。わしの村の古くからの言い伝えじゃ。…わしの娘も、泣いているのう。腹の中の子も泣いているなあ。」
「…」舟が波に揺れているのか、身体が懺悔に震えているのか、わからぬまま、黙し続けるのも苦しかった。
「なあ!」念を押すように船頭が言った。歯の抜けた口が、底抜けの洞穴のようだった。
「すまんかった。」謝った。頭をつけて、何度も何度も謝った。「すまんかった。すまんかった。すまんかった。」何度も何度も謝った。
「この糞坊主が!」そう言って船頭は、櫓から腕を離して、ボコボコとその頭を殴ってきた。
「すまんかった。すまんかった。」坊主も舟べりから身体をはなして、舟底に頭をこすりつけて謝っていた。
「坊主の癖に!人を殺して!お前も死ね!死んでしまえ!」船頭がそのまま海に突き落としてやった。
坊主は荒れる波のなかに揉まれながら、仏に祈る格好で、抵抗せずに、ごめんなさい、ごめんなさいと呟いていた。波風に声は聞こえなかったが、船頭は、坊主の懺悔して沈んでいく様子をみて、自分まで人で無しになるこたあねえと、櫓をちかづけて
「そら、許してやる!それにつかまれ!」と怒鳴った。
坊主は、祈る格好をやめずに、波と潮のなかで、揉みくちゃにされていた。
「おい!良いがら!良いがら!上がってこい!」
何度も沈んでは浮き上がり、舟から離されては近づきを繰り返し、真っ青な顔になっても、御免なさい、御免なさい、堪忍してください、と坊主は祈りながら、波に揺れていた。
心から懺悔したかったのだ。やっと償える。ささくれた心を、仏様の慈悲がやっと、癒やして下さるのだと、物事に抵抗しない諦めがひらけていた。
そして、償いきったときに、過去の罪障を洗うように、大きな波が起きて、舟にかぶった。船頭は、思い切り水をかぶって、ごほごほと咳をして、塩辛くなった顔を袖でぬぐうと、その大波によって舟の上に運び込まれた坊主がいた。
「なんだ。助かったのか。」船頭が言った。
坊主は膝をついて、舟底に頭をすりつけて
「すまなかった。すまなかった。袈裟もぬぐ。奉行所に行って裁かれる。許してください。」
「…もう良いよ。娘も、死ぬこたなかったんだ。貧しいからって。あんただけのせいじゃねえ。色恋なんざどっちもどっちだ。…あんたは波に揉まれて、生まれ変わったんだ。ちゃんとした坊主になりなよ。うちの娘のことも、腹の中の子のことも、ちゃんと供養してくれろ。」
「すまなかった。すまなかった。わかった。供養する。俺は生まれ変わって、もう一度仏の道を歩ませていただく。もう二度と罪の苦しみを味わいたくはない。本当に娘さんにはひどいことをした。すまなかった。すまなかった。」
時化は去った。霧もきえた。波と風は穏やかになった。
船頭の親父は、歯抜けた口を巧みにつかって、口ぶえ吹いて、櫓を漕いだ。坊主の男は、反省してしゅんと小さくなっていたが、男の目からは、罪の苦しみの鱗が落ちていた。海の水に洗われ、浄められて、悪人が、ほんとうの救われの道に入ろうと決意した。そして、衆生に尽くして命を全うしようと、決意した。
しゅんとして小さくなった男は、海よりもおおきくおおきく見えるのだった。改心したその男をみて、天の神々も、菩薩も、諸仏も、大いによろこんだ。善人ばかりの世界に、たった一人の罪人が、心から命を仏に向けること、それは最もとおとく、うつくしく、よろこばしいことだった。
波に揉まれた姿を見て、歯抜けの船頭の心から怨みが消えた。許しがひろがった。
仏様は、天にまたひとつ蓮子の花が満開に咲いたのをみて、きっとお喜びになったことだろう。おだやかな海に、ぽつんと浮かぶ舟に、仏の加護があたたかった。