あっちゃんの窓

大きな窓があった。あっちゃんは、窓からお外を覗くのが大好きだった。お外には、まず、大きな栗の木、いつもおだやかな流れの小川、その奥の方には、なだらかな里山、その里山には、狸、狐、狼、熊が住んでいて、どんぐりやとちの実が拾える、たのしい山だった。あっちゃんのお父さんやお爺ちゃんは、その里山を散策して、たくさん木の実や野草を採ってきてくれるけれど、あっちゃんは、まだ小さいから、里山の奥に入ってはいけなかった。
窓から見える空の、朝日にまざって、白から金色になっていく雲の一群を、あっちゃんは、神様を見るように、見つめていた。やがて、風が吹いて、金色だった雲たちは、さらに小さく細かく千切れて、見えなくなるまで飛んでいった。やがて空は、雲が消えて、大きな、あざやかな青だけが、一面に広がっていた。
太陽は、やわらかい陽射しを、ふりそそいで、小川の水に反射して、キラキラしていた。宝石よりもきれいだった。宝石は、握って、手に持って、さわれるけれど、太陽からのキラキラは、さわれない。さわれないからこそ、余計に、うつくしく、神秘的に見えてくるのだった。
あっちゃんは
「お母さん。お母さん。キラキラしてるよ。川のお水が、お空の色になって、あそんでいて、とってもきれいなの」と言った。
お母さんは
「あらあら。あっちゃん。2階の窓から、そんなに顔を出したら、危ないわよ」と言った。
「あたし、落ちたりしないもの」
「それでもねえ。お母さん心配よ」
「へーんだ」そこであっちゃんはふざけてさらに窓から身体を乗り出して見せた。心配性のお母さんは、あっちゃんの悪ふざけを見て、ギョッとして、あっちゃんの側にいって、窓から部屋にあっちゃんを連れ戻そうとした。
あっちゃんは、お母さんに掴まれて、家のなかに戻されると、きゃっきゃっとはしゃいだ。
「ダメよ。危ないでしょう?」
「危なくないよぅ。お空のキラキラだって、取れるんだから」
「本当におてんばさんねぇ。お父さんに叱ってもらわないとねえ」
「お父さんなんか怖くないよー」そう言ってあっちゃんは舌を思い切り出して、べええと言って、けたけたけた笑った。そして、母の腰のところに腕を回して、ぎゅっと母親の体にしがみついて
「お母さん大好き」と言った。他意のない本音だった。
「お母さんもあっちゃん大好きよ」と母も本音を言った。
親子はにこにこ笑い合った。
朝日よりも、小川よりも、里山よりも、この親子の愛情が、世界で一番うつくしかった。あっちゃんはずっとお母さんが大好きで、お母さんもあっちゃんが大好きだった。
安心のなかで、見守られながら、ゆっくり成長していける、あっちゃんは、幸せだった。

✳︎

敦子は、自分を主人公にした物語を、上記のように書いた。現実の母は、死んで、鬼の継母だけがいた。父親は、継母の味方ばかりして、敦子を顧みることは殆どなかった。
敦子は、「すべての子どもが、物語のあっちゃんみたいだったら良かったのに。どうして、大人の勝手で、こんなに心が辛くなるんだろう」と思った。しかし、敦子はもう二十三才だった。敦子は、正当に親から愛情をもらえずに、大人になれないまま、子どものまま、成人してしまった。自分の子どもができたとしても、敦子は、その子に愛情を向けることができるのだろうか。誰からも愛し方を教わっていないのに。
そのようにして、敦子は、彼氏ができても、子どもを産む不安をいつも感じてしまって、誰とも肉体関係を持つことができなかった。子を為す行為に恐怖を感じていた。そのことが原因で、彼氏とは喧嘩別ればかりしていた。
現実の窓からはなにも見えない。彼女の住むマンションの目の前には、さらに別のマンションが視界を遮るように建っていて、窓から腕を少し伸ばすだけで、その壁に触れられる程窮屈だった。希望を塞ぐ壁。未来を締め出す壁。母の愛情を失わせる壁。見えるのは壁だけ。排気口から狂おしい柔軟剤の匂いがしてくる。エアコンの室外機が、延々唸っている。彼女の人生そのものだった。
うるさい、うるさい、敦子はそう思うたびに、うつくしい物語の中で、あっちゃんを幸せにしなければ気が済まなかった。
「もう嫌だ。何もかも嫌。あっちゃんの物語をたくさん書こう。自分を癒すように、あっちゃんを物語のなかでたくさん幸せにしよう」敦子は、そう言って、自分が受けられなかった愛情を、あっちゃんに目いっぱい注ぐのだった。

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