最後の一服

二時半ごろ、先輩が家にやってきた。
「電車できたんだ。そっから駅から歩いてきたよ」と先輩が言った。
「そですか」と妻が言って、お茶をだした。先輩は、我が家の座布団の上に座ると、ポケットから煙草をだした。しかし、数秒思案してから
「煙草、吸って良いですかね」と妻にたずねた。
妻は困った顔をした。すると、先輩は、申し訳ないと言って、煙草を再びポケットにしまった。
「大学ぶりですね」と私は言った。
「そうだな」先輩が言った。先輩はぼろぼろのコートを着ていた。袖のところが、古くなって、テカテカして、先のところに、ほつれができていた。もともと茶色のコート、今ではやや薄汚れて、灰色になっていたが、先輩は、大学時代にも、それを着ていたのを、私はおぼえていた。
「なつかしいですね」と私は言った。
「うん」
「しかし突然連絡いただいて驚きましたよ」
「まあね」
横に座っていた妻は、そこで
「買い物に行ってきますね」と行って、出て行った。
妻が出て行くと、私と先輩の二人きりになった。
「本当に結婚したんだなぁ」と先輩は感慨深そうにつぶやいた。
「はあ、おかげさまで」
「なんだか時間が経つのは早いなあ」
「そうですね。私が大学卒業してからもう五年ですもんね」
「うん」
「あの時はお互い彼女なんかもいないで、研究、研究の生活でしたね」
「うん」
「・・・」
「・・・」沈黙。
「ま!今だって彼女なんかいないんだけどな!」大きな声で先輩が言った。
「そうですか」
「うん」
「・・・」
「・・・」沈黙。
「お金を貸してくれとかじゃないんだよ」と先輩が言った。
「はあ」
「うん。そういうんじゃないんだ」
「はい」
「ただ大学の頃の友人に、会いたかっただけなんだよ」
「・・・」
「なんというか。自分でもなんでこうなったのかよくわからんのだ」
「はい」
「国や政治が悪いとか。誰かが悪いとか。俺が努力不足だったとか。そういう、もうね、犯人探しをやめたんだよ」
「はい」
「ただ友だちに、お前に、最後くらい会いたかったんだよね」先輩がそう言うと、なんとなくギクリとした。
「最後もなにも・・・いつだって会おうと思えば会えますよ」
「もう大学を卒業したんだよ。お前は社会人だし、家庭も持ってるじゃないか。俺みたいに気軽に出歩ける身分じゃないだろう」
「はあ。まあ」
「と言っても。俺も。金がないから、なけなしの金でね、今日も電車に乗って、こっちまで来たんだな。ほんとに、見すぼらしくてごめんな」
「いえそんなことは」
「俺も一生懸命頑張ったんだけどね。どうも上手くいかなかった。国も悪くない。政治も悪くない。俺も悪くない。運命も悪くない。ただ、本当に、ただ、たまたま、こうなってしまっただけなんだ」
「はい」
「・・・」
「・・・」沈黙。
「・・・院生時代の先輩は、私たち学部生の面倒をよく見てくれて、私は、ぼくは、先輩に憧れていましたよ」大学のころ、私は自分のことを「ぼく」と言っていた。先輩のなつかしい顔を見ていたら、なんとなくまた自分のことを「ぼく」と言ってしまった。
「うん」先輩はお茶を啜って、満更でもない顔をした。
「こうやって連絡いただいて嬉しかったですし」私にはそれ以上なにも言えなかった。
「・・・」
「・・・」沈黙。沈黙ばかりだった。どうすれば良いのだろう。たとえば私が結婚していなければ、先輩に対して何かしらの力になることもできただろう。しかし、今は、私には、妻がいる。妻とのふたりの生活を優先しなければいけなかった。妻の許可なく、なにもしてやれることはなかった。
「たまたまなんだよ。本当に」先輩が言った。
「はい」
「三年前に親父が死んだ。二ヶ月前に今度はお袋が死んだ。兄弟はいない」
「はい」
「実はね。発達障害の検査をしてね。昔からそういう疑いはあったんだけどね。仕事、何をやっても業務についていけなくてさ。そうしたら、言語IQだけ高くて、他は軒並み低かったんだよね。動作性とか。記憶力とか」
「はい」
「まさか発達障害とは思わなくてさ。でもさ。障害年金の申請には受からなかったんだよね」
「はい」
「親父が実は借金残してたみたいで。そいつはお袋が整理してくれたみたいなんだけど。心労が祟ったのか死んじまった。俺も奨学金の返済があるし」
「はい」
「ギリギリだったんだよ。障害年金が通らなかったのは。ちょっとの違いさ。もう少し俺の頭がイカれてれば、年金を貰えてたんだけどねえ。・・・乞食みたいな発想だろう?」
「いえいえ、そんな」
「でも年金の申請が通らなくてスッキリもしてるんだよ。うん。かえって気分が良いよ」
「あのぅ。生活保護とかは?」
「両親が残してくれた一軒家があるからね。ダメみたい。よくわからん。俺はそういう行政のことは苦手なんだ。理解できん」
「はあ」
「まあ。そういうことなんだよ」
「はい」
「国も悪くない。政治も悪くない。俺も悪くない。俺の両親も悪くない。悪魔も悪くない。神さまも悪くない。誰も。誰一人悪くない。長い長い人生で俺が、唯一学んだことはなんだと思う?」
「わかりません」
「犯人なんていないってことさ」
「・・・」
「俺がね、大学院まで教育を受けて、最後の最後に達した結論だよ。犯人はいない。誰も悪くない。ただ、なるべくしてそうなっただけなんだ」
「はい」
「うん」
「・・・」
「話し。聞いてくれてありがとな」
「いえいえ。いつでも話し、聞かせてくださいよ」
「うん。・・・そろそろ帰るわ」先輩が我が家に来てから一時間も経ってなかった。
「もう少しゆっくりしてってくださいよ」
「いいよ。もう。お前には奥さんがいる。仕事がある。俺には帰る家だけはある。・・・大学から離れて、お前と久しぶりに再会して、お互いずいぶん変わったよな」
「・・・」
「別々の人生だ。お互いの人生を頑張ろうじゃないか。あの研究の日々は楽しかったな」
「はい。先輩のおかげでとても楽しかったです」
「社会人らしいこと言うようになったじゃないか」
「ありがとうございます」
すると先輩は、座布団から立ち上がって、我が家のなかを一瞥して
「子どもはまだか?」と言った。
「はい。実は三ヶ月です」
「そうか。身重の奥さん、もう戻ってくるように言ってくれ」
「はい」
「お前が父親になるのか」
「はい」
「がんばれよ」
「先輩も。負けないでください」
「おう」
「大変な状況のなかでも、誰かのせいにしないのは立派だと思います。今でも、ぼく、先輩を尊敬してます」
「いいよ。無理してなにか言わなくても」
「そんな」
そう言いながら私たちは玄関前まで来ていた。
「お前に厄介なんかかけないよ。絶対に厄介なんかかけない。俺のプライドの問題でもあるんだ。・・・本当にただお前に会いたかっただけさ」そう言いながら先輩は靴を履いた。そして、煙草をポケットからだして
「玄関をでたらすぐに吸うのさ。こいつが最後の煙草さ。こっからはもうずっと禁煙だよ。金がないからね」と言った。
私は先輩といっしょに玄関をでた。アパートの七階のエレベーターホールで、先輩は煙草に火をつけた。
「お前も吸うか?大学の頃みたいに一緒にさ」と先輩が言って、一本、煙草を私にすすめた。私は妻と一緒になってから煙草をやめていた。しかし、先輩からの誘いを断りたくなかった。妻には内緒で煙草を吸おうと決めて
「いただきます」と言った。
「うん」
先輩から煙草を一本もらい、ライターを借りて、火をつけて、いっしょに市街地の風景をみながら、煙草を吹かした。私は久しぶりの煙草にむせて、すこし咳き込んだ。
「これが最後の一服だ」
「はい。これが最後の一服です」
先輩は携帯用の灰皿を出してくれた。私たちは、ぽんぽんと燃えかすを灰皿に落とした。
「ありがとう。お前、煙草やめてたんだろ?」
「ええ。まあ」
「いっしょに吸ってくれてありがとな」
「いえいえ」
市街地の風景。当たり前の街のなかに、せわしなく生きる人々の姿を、私と先輩は、ぼーっと煙草を吹かしながら、眺めつづけた。私は、これから生まれてくる子どもと、妻の人生に対してだけは、誠実に責任を果たしていこうと決意した。私が先輩に援助できることは何もなかった。すこしの罪悪感が胸の奥にくすぶったが、どうしようもなかった。
すると先輩は
「誰も悪くない。お前も悪くない」と煙草の煙をふぅぅぅっと吐き出して言った。無精髭の伸びた顎、すこし薄くなった前髪、ボロボロのコート、先輩は、悪くなかった。私は自分が卑怯者になったと思って、泣いてしまった。
「すみません。すみません」
「なんだよ。泣くなよ」
「むかし、レポートとか大変なとき、先輩、親身になって助けてくれたし。ぼく、全部、覚えてます。いっつも、ご飯ご馳走してくれたし。嬉しかったんです。ごめんなさい。ごめんんさい。何にもできなくてごめんなさい」私はそう言いながら大泣きした。
「・・・」先輩は無言のまま七階のエレベーターホールから見える世界を一望しながら、吸い終わった煙草を、携帯灰皿のなかに、押し潰した。
「煙草は吸い終わる。いつか人は死ぬ。でもそれだけでもないんだ。たまたまなんだ。本当にたまたま。お前はお前の人生をしっかり生きろ」
私は吸いかけの煙草をホールのコンクリの床に落として、まだグズグズと泣いていた。結局、何もできなかったし、今後も見て見ぬフリをしなければならなかった。卑怯者になってしまった。誰も悪くないと言えるほどには、私は強くなかった。
先輩は、私の落とした吸い殻を、靴底で、強く、二、三度グリグリと踏み潰してから、拾って、携帯灰皿のなかに捨てた。エレベーターのボタンを押して
「もう帰っから。ごめんな。わざわざ。会えて良かったよ。それにいっしょに煙草も吸えて良かった。奥さんのこと大事にな。お子さんも。じゃあな」
私は先輩が話しているあいだ、ずっと感極まって泣いていた。どうしてこんなに涙がでるのかわからなかった。やがてエレベーターが七階に来た。先輩はそのなかに入って
「ここで良いから。あとは帰って休んでくれ。きょうはありがとう」と言った。私はエレベーターにいっしょに乗ろうとしたが、先輩は「良いから。良いから」と言って、私を乗せずに、ひとりで一階に降りて、帰ってしまった。
もうきっと先輩と会うことはないのだろうとなんとなくわかっていた。私は、先輩が足で踏み潰した吸い殻の跡を見つめた。コンクリの地面が吸い殻の灰で黒と白に汚れていた。
たしかに、ぼくと先輩はここで、大学生のころに戻ったように、一服した。ぼくと先輩の最後の一服だった。

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