ヤジェルとヤシェルダッド
ヤジェルは熱ぽかった。頭があつい。額があつい。心があつい。皮膚があつい。時間がねじれ始めた。皮膚の中を羽虫が飛んでいる。もぞもぞしている。
ヤジェルの母親は
「大丈夫かね?」と言った。
「ああ。熱っぽいんだ」
「無理すんな。きょうは休め」ヤジェルの父親が言った。
「ああ」ヤジェルは、そう言って、あつい身体を引きずって、大モグラの毛皮の毛布を持って、小屋をでて、洞窟の奥に入った。
洞窟の奥はぼんやりと明るい。天井には幾つもの穴が空いていて、そこから、空気と太陽光が入っていた。中には苔すら生えていない。入り口は狭いが、奥に行くほど空間が広がって、まるで人の心のなかのようだった。こころ、狭い入り口の先には、どこまでも広大な地下が…
ヤジェルは、毛布を湿っぽい地面に敷いて、あつくなった身体をそこに乗せた。
正面の壁には、ハガドの爺さんが描いた、壁画が見える。壁画のなかには少年が二人、天人が三人、ヤシェルダッドが描かれていた。ひとりの少年は、手を合わせて祈っている。もうひとりの少年は、結跏趺坐をして、瞑想している。彼らの頭上には、天人たちがいて、雲に乗りながら、下々の少年たちを見守っている。
そして、天人と少年たちの真ん中にヤシェルダッドがいる。ヤシェルダッドは、目を半眼にして、この世とあの世の全てを見つめている。
ハガドの爺さんは死んでしまった。
ヤシェルダッドを思い出す。ヤシェルダッドは、栗、粟、どんぐり、ぐみ、桑、大豆、小豆など、様々な穀物と木の実を、神様から授かり、それらを人々に分け与えた、はじめの人である。ヤシェルダッドはまた、祈りと瞑想、宇宙の掟を人々に伝えた。
ヤジェルの村は、ヤシェルダッドの教えと掟を、信じ守ってきた部族のひとつであった。
熱のなかに、命があった。あつい、あつい。内から燃えている。
ヤジェルは、ヤシェルダッドがやってきたと、肌で感じていた。この熱は、まさにその証しだった。
熱のなかでうなされながら、ヤジェルはやっとの想いで結跏趺坐をすることができた。洞窟の天井の穴の一つからとつぜん風が吹き込んで、彼の身体をつつんだ。その風は、吹きやまない風だった。髪の毛や体毛を、こすりながら、身体を熱するように、舐めるように吹きつづけていた。
「ヤジェル、ヤジェル」ヤシェルダッドが語りかけてきた。ヤジェルはその声に合わせて目を開けようとしたが、
「目を半眼のままに」と声はつづけた。風はやまず、熱もやまなかった。
「風はお前だ」ヤシェルダッドが言った。「お前が風で、風がお前だ」風はさらに強く吹いた。まるで嵐だった。さらに雨が降りだした。それは、皮膚から降る雨だった。どんどん噴き出して降りつづける雨だった。
「雨はお前だ。お前が雨で、雨がお前だ」ヤジェルにはさっぱり意味がわからなかった。熱はどんどん上がっていく。もう暑くて、とてもじっとしてられない。
「動くな。動くとすべて途切れる」
しかし、ヤジェルはもう堪らなかった。いくらヤシェルダッドの言うことでも、これ以上は聞けない。もう聞くのをやめて、動きだそう。洞窟を出よう。
そう思った瞬間に熱が下がって、平静になってきた。
途端に声も、ヤシェルダッドの迫力も、薄く遠くなってしまった。
「ヤシェルダッド!」少年ヤジェルは、その人を呼んだ。(疑いなんか持つべきじゃなかった。熱のまま焼かれてしまう方が、どんなに良かったことか)と後悔した。熱は、まだ、残っていた。
悲しくなって涙がでると、もう一度、火種が息を吹き返した。ヤシェルダッドが帰ってきた。少年はそう思った。
「私はずっといるよ。そして、ずっといたのだ。お前が、風をやめ、雨をやめ、熱であることをやめて、お前であろうとしたから、私が見えなくなったのだよ」ヤシェルダッドは、意識の共振力で、説明した。ヤジェルは納得せざるを得なかった。
「お前は熱だ。お前が熱で、熱がお前だ」そのとおりだった。そのとき風と熱がすっかりやんだ。冷気さえ生まれていた。
洞窟のなかには雨も風も熱もなかった。涼しげな空気だけになった。
やがて何者でもないヤジェルが、ヤシェルダッドと共にいた。
「次は、おまえが、村人たちを導く村長になるのだ」
「はい」
「三十八年後の春に、お前のところに、神を伝える者がやってくる。名をダニエルと言う。お前はその者から洗礼を受けるのだ」
「はい」
「この洞窟のなかで、お前が感得したことを、誰にも喋ってはならない。意識によって伝えられる者にのみ、意識から意識へと、語りなさい。言葉で語ってはならない」
「はい」
「お前はただの器だ。そしてお前が最後の村長だ。お前と共にこの村は滅びる。やがて名前をかえて、身体をかえて、長い長い永遠の後に、お前は、もう一度、私と会うだろう。それまで様々な姿になり、形になるが、抗うな。その姿かたちのままに命を全うし続けなさい。ながいながい永遠の後に、私はお前を迎えに来るだろう」
「はい」
そしてヤジェルは、村の長老になった。村を導くためにヤシェルダッドを名乗ることを許された。