「院内」という僕が選んだ美しいローカルの話
自分のルーツを巡る旅というものはなかなかに面白い。
僕の場合は、そのルーツを巡る旅が人生を大きく変えてしまった。そして、今後も大きく変え続けていくだろうと思う。今日はその話をしたい。
僕のnoteにはこれから「院内(いんない)」という言葉が頻繁に出てくるので、解説を加えておきたい。念のため断っておくが、僕は医療関係者ではない。
院内というのは、秋田県の最南端、湯沢市にある土地の名前で、かつて「東洋一の大銀山」として年間産出量日本一を何度も記録した院内銀山によって栄えた古の鉱山町だ。日本有数の豪雪地帯である湯沢市の中でも、特に降雪量の多い地域として知られている。
繁栄を誇った銀山町
院内銀山には1606年の開山以降3回のピークがあった。開山直後の江戸初期、新鉱脈の発見により廃坑の危機を脱した江戸後期(天保期)、外国人技師の招聘と新設備の拡充により過去にない産出量を記録した明治期の3回だ。院内銀山が文明開化後の富国強兵政策に及ぼした影響は絶大で、明治天皇が坑道の入り口まで巡行に来るほどであった。院内銀山に明治天皇が訪れたのは9月21日であるが、その日が全国の鉱山記念日として制定されていることは意外に知られていない。
院内の銀山町は長い歴史の中で、「生産」「交易」「消費」という3つの都市機能を有し続けてきた。特に、天保期(1830年頃~)に活躍した銀山お抱え医師・門屋養安が残した『門屋養庵日記』は銀山町の繁栄を知るにあたっての貴重な資料だ。本業の医療活動のみならず、藩や銀山町の政治、経済、文化、民俗、食生活、季節の風物詩や天災まで多彩な内容が記されており、当時の華やかな生活の様子をありありと知ることができる。候文で書かれた日記の原文は読むのに大変な困難を伴うが(何が書いてあるのか全くわからない)、茶谷十六先生著『院内銀山の日々「門屋養安日記」の世界』で非情にわかりやすくまとめられているので、手にする機会があったら是非読んでみて欲しい。
明治になると、銀山は藩から国(工部省)に払い下げられ、ドイツやイギリス、フランス、アメリカの鉱山採掘技術や文化を導入し、銀山町はますます発展した。元々全国から鉱山労働者が集まる交易の拠点だったのだが、外国の文化を早々に導入したことでイノベーションはさらに加速していった。今では信じられないかもしれないが、院内は工業的にも、文化水準的にも、最も進んだ地域だったのだ。特に、地域として力を入れていた教育の水準の高さは、今も院内尋常高等小学校跡(院内地区センター)で窺い知ることができる。
衰退と閉山、そして激動の現代へ……
そんな繁栄を誇った銀山も、明治39年(1906年)に起こった坑内火災や鉱脈の枯渇、銀の市場価値の暴落の影響を受けて次第に規模を縮小し、昭和29年(1954年)に完全に閉山した。基幹産業である鉱業が衰退すれば、町もそれに伴ってもの凄いスピードで衰退していくのが鉱山町の宿命であるが、院内も例外ではない。
戦後・高度経済成長期にもなると、地方は都市部に多くの人的リソースを提供してきた。意地悪な見方をすれば、都市は地方の人材を必要以上に搾取してきた。地元の基幹産業が衰退の一途を辿る院内では、多くの人材がより稼げる仕事を求めて大都市に流れていった。そして、どこの地域でも見られるように、故郷に帰ってくる人は極めて稀だ。
そんなこんなで、最盛期に15,000人を誇った人口も、今は1,600人を切っており、人口減少、少子高齢化、医療介護福祉、除雪、買い物弱者、独居老人と孤食……と、地域課題の先進地となっている。
栄華を誇った院内銀山は、当時の面影を僅かにしのばせるのみだ。
だからと言って、この地域に魅力がないかというと、決してそんなことはない。自然や歴史的建造物は言いようもないくらい美しいし、地域の皆さんは本当に優しくて素晴らしい方々だし、むしろ、ソーシャル・イノベーションの可能性に満ちたこの地域の魅力に、僕は憑りつかれている。
院内と僕のこと
実は、この院内には僕のルーツがある。曽祖父は、銀山町で堀子や大工を束ねる「金子(かなこ)」という職業を生業としていた。存命の伯父や伯母から話を聞くに、どうやら相当にエキセントリックな人だったらしいから血は争えない。
僕は2年前から、あることをきっかけにこの地域に関わり始めて、紆余曲折を経て、今では院内に一人移住し、多様なプレイヤーと連携しながら地域再生と社会デザイン、新しいライフ&ワークスタイルのモデルづくりに携わっている。他にも観光インバウンドの推進やローカルコミュニティマネジメント、関係人口の創出等、手掛けていることは多岐に渡るし、今後、自分から広げようとしなくても、活動の幅は否応なしに広がっていくだろう。
湯沢市や故郷の仙台のことだけでなく、僕は東北と世界の繋がりを常に意識している。もっとも、こういう話をすると大体嘲笑されたり、冷ややかな視線を向けられたりするのだが、その手の侮蔑には大分慣れた。
確かに、大手通信会社で働いていた時に比べると、収入は随分と下がった。だけど、精神的にも物質的にも豊かで充実した暮らしをしている。もっとも、起業して仙台で会社を経営している時には自分で自分の役員報酬を稼ぐことができなかったので、その時と比べれば、広い家に住まわせてもらっていることもあって、経済的にも全然豊かなのであるが。
「何故、院内・湯沢市を活動の拠点として選んだのか?」「どのようなヴィジョンを描いているのか」ということについては、別の記事で掘り下げたい。
冬の院内には特別な趣がある。毎日が美しい。
この地域が美しいように、僕も美しい人間でありたいと思う。
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