見出し画像

家路への憧憬と孤独

移住して初めての夏が終わろうとしている。
いや、もう終わったというべきか。

暦の上ではもう秋だ。雪国の秋はまた独特で、そう遠くない先に訪れる冬を想起させるせいか、都会で暮らしていた時と比べて三割増しくらいの寂寥感を感じる。

慣れない土地での独り暮らしは、どうにも切ないものだ。

今日書き残すのは、誰の役にも立たない(であろう)、「孤独」に関する極私的な随感だ。

自分のことを何かと気にかけてくれたり、一緒に遊んでくれたりする仲間がたくさんいる中でこのようなことを言うのは贅沢な悩みだとは承知しているが、こうして自分が抱えている苦悩を言葉にする我儘をどうか許して欲しい。

この前にも書いたが、色々な事情があって、両親や妹とは疎遠になっている。結婚もしていないし、残念なことにその予定もない(一応、過去に婚姻関係を破綻させた経緯があることについては言及しておく)。兎にも角にも、家族という概念領域において、僕の今の状況はとても孤独だ。

一年前、事業に失敗して財産を始めとして色々なものを失ったけど、故郷に帰る家がない、ということばかりは簡単に割り切れていないようだ。実家に帰って「ただいま」を言うシチュエーションはもう二度と訪れないだろう。

言うなれば、僕は「ただいま」という言葉を概念的に喪失してしまった。

最後に「ただいま」を言ったのはいつだろう。
もうその記憶もない。

仲が良かった兄とは14年前に死別した。
たまに、昔のこと、子どもの頃のごく当たり前の家族の団らんの風景を思い出して感傷に浸ることもあるけれど、思わぬタイミングで家族と死別したり、望まずとも離散してしまうことは古今東西よくある話だから、自分のケースが特別悲惨だとは思っていない。そもそも、多くの人に迷惑をかけ、家族という領域における孤独という状況を引き起こした責任の所在の多くは自分にある、つまり自業自得と思っているので、僕はこの制約を甘んじて受け入れなくてはいけない。

とは言え、なまじ家庭の温かさやライフパートナーがいることの心強さ、幸福感を一度経験している身としては、今の「ただいま」を言う必要性がないという状況は、正直言うと結構辛い。

いや、言葉を選ばずに言えば、クソッタレ以外の何物でもない。

よって、僕は、自分の人生戦略における短期的な最優先事項の一つに、「ただいま」という言葉を取り戻すことを位置付けている。日常的に「家路」というものにつき、家に帰れば「ただいま」を言って、それに対して「お帰り」を言ってくれる家族がいて、家族のために仕事を頑張る、僕はそんな日常が欲しくて欲しくてたまらない。なお、統計的に見て、この歳(来月で37歳になる)になって、所謂「訳あり」の独身男性が、そんな日常を享受できる側に回ることがかなり難しいことについて、一応理解はしている。

そして僕はきっと、心の深い部分、いわゆる無意識の領域において「家族の温もり」という恩恵に与っている人達を憎み、呪っているのだと思う。もしかすると、心のどこかで自分と同じ孤独と絶望のフィールドに、彼ら・彼女らを引きずりこんでやりたいと思っているのではなかろうか(さすがにそこまで腐ってはないとは思うけど……)。いずれにせよ、僕は、自分がこの手のルサンチマンを少なからず抱いていることに対して、極めて自覚的だ。無自覚のルサンチマンよりはいくらか上等だろう。

もちろん、僕もいい歳した大人だから、それを表面に出すことはしないし、近しい人の幸福はとても喜ばしいものだと思っている。もしそうでない人がいるというのであれば、僕はその人の幸福を間違いなく願うだろう。

しかしながら、夏祭りや休日の繁華街で幸せそうに歩く家族連れや恋人達を見て、言葉に言い表せない惨めさや罪悪感、悲哀、自分の人生に対する一抹の不安と迷いを感じてしまうのも、悲しいかな、また事実だ。

ああ、僕は何と弱くて、醜くて、汚くて、惨めで、ずるくて、強欲で、傲慢で、業の深い人間なのだろうか!ディスプレイの向こうで、笑いたければ笑うといい。軽蔑したいなら軽蔑すればいい。

後ろ指なら刺すより刺される方がいいから。
侮蔑も嘲笑も批判も甘んじて受け入れよう。

この心の暗闇に、いつか一筋の光が射しますように。
僕は今日も、明日も、神に憐れみを請う。

孤独な感情を言語化することにきっと、意味はあると思う。
そこに光が投げ与えられた時に、それがどんなにありがたいものか分かるからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?