【覚書】川光俊哉さんに頂いた講評で勉強中です その2

 覚書その1を書いた後、頂いた講評に対して、ああですかこうですか、どういう意味ですかとさらに質問をさせてもらったら、なんとその日のうちにお返事がいただけました。繰り返しになるけれど、これ、無料でいいんですか…… 菓子パン一個でも120円くらいするのに……(無意味な比喩をやめなさい) こんな素人にも真面目にお相手してくださるのは、文学への何か強い使命感があられてのことなのだろうか。とにかくこんな機会が得られたことに感謝。無料のタイミングで私に精神的な余裕があったのも幸運。私は幸運な女ですよ、へっへっへ……。
 覚書その1でも書きましたが、川光さんの講評は切れ味が鋭く、素人もセミプロも同じレベル感で講評してもらえます。今の私は仕事と家庭に余裕があるので、なますになった私をみんな見るがいいという気持ちで講評をお願いしました。気持ちに余裕がないときなら多分やめておいたと思います。
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不要な記述は
ただひたすら不要なのであって
「自然さ」が十分だからといって救われることはない。

 すいすい書けた部分は、まるっと不要だった。機能していないという指摘は、今私が想定しているのとは別の機能を持っているから使いようを考えなさいということかと思ったら、そもそも何の機能も果たしていなかった。不要だった。はい、さよなら。

この作品を通じて「自然さ」を志向しているとは想像だにしなかった。
こんな説明的発言をする人間は存在しない。

 この作品で自然さは志向していないんですが、自分の書いている台詞はまあまあ自然な感じの会話文になってるんじゃないかななどという期待は、木っ端みじんにされました。(紋切型の表現)
 説明的だったと気づいてもいなかったのは、恐らく、小説以前に私自身の普段の会話がめっちゃ説明的だということですね。私は多分、日常、不自然な会話をする女だと会社の人などに思われている。創作以外での問題点にも気付かされる創作教室。

作者がいかに女性をおろかだと考えているのかが分かる。

 あああ!! あまりにグサッと来て逆に笑えてきました。決してそんなことを考えてはおりません。でも、こうやって「この作者はこういう考え方なんだろう」と思ってもいない方向に解釈される危険も考えて書かないとダメですね。書いたこと(書けたこと/相手が読み取ったこと)が全てなんだから。純文学畑ではありえないかもしれないけれど、昨今は作品と作者を結び付けて考えられるシーンが多い気がする。noteみたいなブログ兼作品投稿プラットフォームみたいになっているところを使うのだと特に。

事件とそれによって生じるコンフリクト以外、価値観を提示できるものはない。
説得、会話、あるいはメールなどで人間の信念は変わらない。
かならず「行為」「事件」を通して「歩み寄る」。
メール程度で「歩み寄る」ことができたのなら
それは「たいしたコンフリクトではなかった」
したがって「書く必要がないエピソードだった」ことを示す表現になる。
コンフリクトとは
キャラクター間では
不和、衝突、対立であり
キャラクター内では
(異なる信念、感情、動機の間に生じる)葛藤を意味する。

 川光さんの以前の講評は読んでいて、確かにこの部分を読んでいたのだけど、わからなかったし今もわかっていない。ずっとどう質問したら自分のわかってない部分にアプローチできるのか考えてて、川光さんから、まだ質問の対応しますよと言っていただいたのに、ちょっと待ってくださいと言うレベル。
 「事件とそれによって生じるコンフリクト」とは???? 今回の私が出した作品にそれがないのはまあなんとなくわかる。でも、他人様の作品を読んでみると、素人目には、大事件おきてるしコンフリクト発生してるやん? と思うのですが、小説の機能としての事件というのは、日常生活や一般的な文脈での「事件」とは別物なのでしょうか。あるいは、事件は事件だけど、その後のコンフリクトのレベルが足りないということか。その観点でまた他人様の講評作品も読み直してみます。
 しかし、古典とか純文系の受賞作とかを読んでみると、今度は事件すら起きてないような気がしてくるという……! 主人公は最初から悩んでて、なんか日常的な出来事をきっかけとして、悩みの解決か深化に向かって変化する、としか理解できてない。2020年の太宰治賞の本を人に譲っていただいて読んだ。ああいうお話を読むのは好きなんだけど、自分が書いてたら止まっちゃうと思う。なんで、妊娠は嘘だったはずなのにエコーに映るんだ?? なんでもありなのか?? って。

 私の読み方の問題なんですかね。まだ解像度が低い。全然わかってないのに、もっと理解するための質問を今すぐ重ねられない。悔しいが、わかってないことはわかった、進歩! 強引に前を向く。止まるな。今夜も読め。明日も書け。
 現状の私の理解レベル:デスゲームと転生が流行る理由ってこれやろか。 

「願望」を垂れ流して共感されたいのなら
小説を書くより
Twitter で長文ツイートをしたほうがいい。

 小説の用途や目的はそれじゃないですよね。ところでそもそも小説を書く(読ませる)目的ってなんだろう。えっ、みんな何のために書いてるの? 最近の映画や本への感想は「共感できなかったので楽しめなかった」「主人公に共感して、〇〇のシーンでは自分も一緒になって△△した!」みたいなものが多いと聞いたことがある。読む側には少なくとも「共感できるときもちいい」みたいな感覚を持つ人が一定数いるのかも?
 学生時代、演劇部で脚本を書いたとき、キャラクタを愛してしまったり自分に似てる部分を見つけてしまったりすると、そのキャラをひどい目に遭わせる展開が書けなくてダメだったということを思い出しました。もしかして同じことを繰り返している?

「最終的にこの二人は上手くいかせる」なら
当然、「まず反発する方向に動か」すべき。

 やはり、このシーンでは反発させて、二人が上手くいくとすればそのシーンはもっと後になるのですね。この作品にこだわる必要はないということだけど、もし直すなら、をしばらく考えてました。それはそれで面白い。そして、やっぱり定石通りに構成するには枚数全然足りないじゃんと気づきました。
 ちなみに先日、三浦しをん氏の「マナーはいらない」を読んで、枚数意識を持ちながら書くのが重要だと初めて知りました。自分のワープロ設定を変更しました。

構成がはっきりすれば
必要な要素、不要な要素は自動的に決定される。
明確に書きたいことを自覚していないのが問題。

 ほんま問題ですよね。前回の覚書記事で私は
この作品は「このお布団キモチイイわ~癒されるわ~電車乗って会社なんか行かず、ずっとここに居たいわ~~」の感覚一つからなんとなく書いたら出来上がったなどと書いてしまってますよ。恥ずかしい。あえて太字にしてみた。めっちゃ恥ずかしい。書きたいことがあるという理由よりも、書いてる時の不思議なトランス感覚(考えてもいないことが文字として出てくる)のが面白いって理由で書いてダメなのね。ダメというか、人に読ませるに値する、人が読む価値のあるものにはならないのね。

 今の私に出来る「書きたいことを明確にする」方法ってなんなのだろう? 「主題を掘り下げる」ってどうやるのだろう?
 ひょっとして↑の「お布団ぷんちゃぷんちゃ!(IQ3)」を私が快と感じたのはなぜだろう、から始まるのだろうか。私がこれを快と感じたのは、私にはこういう価値観や問題意識があるからだと気づくところまで丁寧に辿っていくとIQ100くらいまでなんとか繋がるのだろうか。

模倣しつくして
あきて、卒業したころに自分の文体が完成する。

 模倣が練習になるというか糧になるというのは、嬉しいですね。だって模倣するのは結構、面白い。そしてこの方法が使えるのはありがたい。というのも、私は一人の作者の作品を連続で読んだり、一人の仲の良い人とおしゃべりし続けると、一時的に、自分の言葉がその人の文章、口調に近くなる気がするから。それが、例えば京都弁の台詞を書きたいとか、あるキャラクタの言葉で書きたいというときは、うまいこと作用する。けれども、交流があったりスキ連発しちゃったお相手の文章をたくさん読んだ直後にエッセイなどを書くと、真似したのが露骨なんじゃないかと恥ずかしくなって、公開するのをちょっと後にしたりする。自意識過剰かもしれないけど。
 でもそれはひょっとしたらいいように使えるのかも。私程度だと多分、パクッている! とか言われることはないのだろうけど、古典と大御所作家をやや多めに、意識的に模倣もしてみよう。あとは書きたい世界観を書いている作品の模倣? ああ、私の書きたい世界観ってどんなんだろう? 疑問が尽きない。

 しかし、会社で広報部に戻りたいからいろんな文章が書けるようになろうという意思で小説も書いてる私、谷崎潤一郎とか真似して大丈夫ですかね? (文豪気取りと指摘されるくらいに模倣できるならやってみいや)

作家の「小説の書き方」は結果論でしかなく
体系的な方法論を自覚していないので(日本の作家は特に)
あまり信用しなくてもいい。

 そうなん、です、か!?
 逆に、体型的な方法論なしに書いている人たちすごいなと、ややひるみましたが、まず真似できるところは取り入れながら、そんなのできるか! と思ったところは「あまり信用しなくてもいい」理論でいってみます。

「おもしろい」、「つまらない」を
漠然と印象のままに放置してはならない。
明確に言語化する努力をしながら
小説、映画、美術、あらゆる作品を鑑賞すべき。

 実は、小説以外にも、私は芸術方面の素養がないんじゃないかなと不安になることが多くあります。美術館とか、普段全然行ってない。人混みが苦手というのがまずあるから特別展の混雑イメージで避けてるのもあるけど。ルーブルやウフィツィは行きましたし、見ている間は一応、綺麗だなとか、建物自体が日本の美術館と比べて圧倒的にでかくて面白いとか、レベルの違う金持ちが社会的使命として芸術家の保護育成をしている国って素敵だなとか感じているんですけど。
 小さい時から、芸術を嗜む家庭か、特別才能のある人じゃないとわからないんじゃないの? と思っている節がある。でもそんな自分の浅学さがあまり好きじゃない。だって学校のお勉強はよくできたのに、芸術方面だけ素養がないのって、残念すぎません? というわけで、小説を書くためにも小説じゃない勉強は必要だしやっていこう。でもその勉強に「言語化する」というちょっと得意な部分を使ってよいと知れたのはかなり大きな収穫。視野も広げて、解像度も上げて……ひょっとして純文学って途方もない? と今更感のあることを言う。

次の作品を書くことに
より可能性を感じる。

 よほど思い入れがある作品でなければ、新しいのを書いた方が勉強になる、と。よし、次へ行きましょう!
 多分私が普段持っている問題意識からすると、書けるのはフェミニズム小説の方面に寄りがちになるかもなとは思っている。どんなものが書けるのか、書きたいのか、これから考えていこう。

覚書のおわりに

 解決ができてないことがいくつかあるんですが、これ以上深めるための質問がうまくできる段階に考えがまとめられてないです。納得いくまで質問対応してくださると連絡いただいてるのに、自分の疑問点がさくさく整理できず悔しい。少なくとも、もう少し勉強&練習して、次になにか完成させられたときにはぜひまたお世話になりたいです。

 川光俊哉さん、この度はありがとうございました。
 私のような者にもたくさんのご指摘をいただいて、質問にも答えていただきましたことに、心から感謝申し上げます。

と、締めたと見せかけて

 これを書いてもまだ質問をまとめられす、更に1週間経っているのにまだ回答してくださるとご連絡を頂いたのですよ。そこからもう私の作品の講評の範疇ではない質問までさせていただいたら、また速攻でご回答頂きました。これが無料なんて……。振り込めない詐欺という新しいやり口なのでは。


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槙野 世理沙
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