ショートショート【公安のネズミ】
ある女を、長らく追っている。昔住んでいた街で、彼女は私の仲間に手をかけた。私たちの死が、世間に明らかになることはない。そういう身の上だ。仲間も私もよく理解している。私たちはドブネズミだ。それでも、私は彼女のことを追わなければならない。元々小柄な体を更に縮めて、目立たぬように振舞う私と、顔を上げて堂々と歩く彼女。恐ろしい本性は誰にも気づかせない。
彼女は、美しい女だった。瞳は切れ長で、爪はいつもきりりと整えられ、つややかな毛は一目見てうんと手入れされているとわかる。街を歩けば、男も女も振り返った。口笛を吹いて気を引こうとする者や、いきなり彼女の体に触れようとした愚か者もいた。するりと身をかわすかに見えた彼女は、思い切り嫌な顔をして、自分に伸ばされた手を容赦なくはたき落とす。恐るべき速さで立ち去る彼女を追うため、私は懸命に地面を蹴った。
彼女は、悪い女だった。食事など、他人に面倒をみてもらって当然だと思っている。そのくせ偏食で、気がのらなければ、出された食事に一切、口をつけない。財布を出す素振りはおろか、ごちそうさまも言わない。彼女は幾人もの男の家を渡り歩き、その相手は若者から年寄りまで様々だった。男たちは彼女の本当の名前を知らないらしく、皆、彼女のことを違う名前で呼んでいる。どれも、彼女の美しい外見にいかにもふさわしい名前だった。彼女がいつもつけている首飾りの小さなプレートには、彼女や本命の男の名前が記されているのだろうか。
彼女が、男たちにどれほど愛されているとしても、私は彼女を止めなければならない。これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない。彼女が、いかに危険で恐ろしいか。知っている者として、彼女を見張り、彼女に近づく者には危険を教えてやる義務がある。だが、彼らに接触すると、大抵の場合、彼らは驚き、私を追い払おうとする。身元の知れないあの女を家に上げるのは平気なくせに、私のことは、汚いものを見るように追い立てる。私は彼女の秘密を教えるために来たというのに。どんな目に遭っても知らないぞ。言い残して、彼女に姿を見られぬうちに隠れ去るより他にない。
彼女は、敏感な女だった。周囲を見張っている私の存在に感づきつつある。こういう女は鼻が利くのだ。一人歩きするとき、彼女は足音を潜め、周囲の気配を警戒している。ほんの一枚の壁を隔てたところで私の方も息を殺し、そろそろ彼女との長い鬼ごっこを終わらせるときがきたと感じていた。少し前から、彼女は付き合いの長い男の家に戻っている。この男は彼女に巻き込まれる形で、私の仲間の死体を始末させられた男だ。築何十年のぼろアパートに住んでいる。壁や窓の綻びから彼女を監視しやすく、私には好都合だった。年が明けたばかりで、外はうんと冷えている。彼女はここに、しばらく居座るつもりだろう。
彼女は、しかし、可愛い女だった。この男といるとき、他の人間に対するよりもほんの少しだけ態度が丸くなる。もちろん、彼女が家事を手伝うことはない。男を台所に立たせてすっかり気を緩め、炬燵でくつろいでいた。心を寄せる男に気を許している姿から、彼女の恐ろしさは感じられない。うとうとと瞼を閉じていた彼女は、男の準備する食事の香りにつられて顔を上げた。私は慌てて目を逸らしたが、彼女は僅かに目を見開くと、腰を浮かせ、私の視界から消えた。
まずい。
気づかれた。彼女は私を探している。奥は行き止まりだ。私は体を小さくして動かないようにした。このまま暗闇に溶け込んでいれば、あるいは。祈るようにして目を閉じる。
十秒だろうか、二十秒だろうか。あるいは何分も経ったのか。恐る恐る目を開けた。
にゃぁん。
壁の割れ目のすぐ向こうに、彼女の金色の目が迫る。差し入れられた彼女の前足が、私のしっぽを押さえつけていた。
「やめろ、もうネズミはいいって。前にも言ったろ。ショコラ」
意識を失う直前、私は彼女の本当の名前を知った。
「この壁の穴、ちゃんと塞いでおかなくちゃな」
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