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ショートショート【足の爪が切れない】

「夜に爪を切ってはいけないよ。親の死に目に会えなくなる」

 祖母は、こんな風な迷信をよく口にした。食べてすぐ横になると牛になる、お盆の海水浴はあの世に連れていかれる、朝の蜘蛛は殺すな……他にも色々あったはずだ。

「お義母さん、あんまりおかしなことをこの子に教えないでください」
 祖母が、迷信で私を脅かすと、母は露骨に嫌がった。世間の例にもれず、うちも、同居の祖母と母との仲はそんなによくなかったと言っていい。派手な諍いはなかったけれど、日常での擦れ違いはしばしばあったのだろう。父は祖母の迷信を、うんうんと聞き流していた。母と祖母とのどちらの味方につくでもなく、面倒ごとをかわすような父だった。

 ある時、父は夜遅くに爪を切った。もちろん祖母の見ていないところでだ。パチパチパチと、五分もかけずに両手と両足の爪を切ってしまった。翌日、父が仕事に行っている間に祖母は死んだ。なんの病気もしていなかったのにあっさりとだ。今からもう二十年も前のことで、私は小学生だったけれども、「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」だけは本当なんだと、いまだに私は思っている。

 迷信は人を怖がらせるようなものが多い。もちろん、食べてすぐに横になるのは確かに行儀が悪い。お盆の時期、海にはくらげが出る。恐ろしげな迷信は、子どもに教訓を学ばせるために脅し文句が盛り込まれているだけだと、大人になれば当然にわかる。わかっているのだが、どうしても足の爪が切れないでいる。

 足の爪を最後に切ったのは、仕事が忙しくなる前だったから、二週間は前だ。最高記録と言っていい。いい加減、切ってしまわないと、何かにひっかけて爪がはがれそうだ。早く、切らなくては。わかっているが、どうしても切れない。今夜ももう十二時まであと少ししか残っていないからだ。夜に爪を切ってはいけない。祖母の声を思い出す。このところ残業や飲み会が続いているせいで、私は足の爪が切れない。帰宅して、風呂に入って髪を乾かしてと超特急でやっても、あっという間に十二時前だ。明らかに、祖母の言うところの爪を切ってはいけない時間だろう。足の爪ではさすがに、会社のおじさん社員よろしく、昼休みにごみ箱の上でパチパチとやるわけにはいかない。今日も、爪が折れませんように、ストッキングが伝線しませんように、と祈りながら朝の支度を整えた。

 出勤途中にスマートフォンを見ると、母からメッセージが来ていた。若いころから好きだった歌手がついに引退するとかで、ツアーが組まれたらしくフランスに出かけるのだと言う。「着いたらすぐ観光にいくので、飛行機でしっかり寝ておかなくちゃ」ホテルの写真までついている。いい歳をしてミーハーな、と眉を顰める人もいるだろうが、元気そうでなによりだ。いってらっしゃい、のスタンプを送っておいた。

 パチ、と目が覚めた。自然にだった。枕元の時計は、七時十分前。朝だ!いつもは出勤ギリギリまでベッドで粘る私にしては珍しく、あっさりと体を起こすことができた。机の引き出しから爪切りを取り出して、ソファの上で背中を少し丸く屈めて足を見る。左足の小指から親指、右足の小指から親指、という風に切るのがお決まりだ。親指の大きな爪は最後のお楽しみに取っておく。パチ、パチ、パチン。爪が割れないように、深爪しないように、小さな爪も何度かに分けて切っていく。順に進んで行って、親指に差しかかったときである。
「あ」

 切り残しがないよう丁寧にやっているのに、親指の硬い爪は勢いよく爪切りの外に跳ね飛んだ。白い爪が、紺色のソファの上で、細い月のように見える。そこだけ夜だった。

 夜に爪を切ってはいけないよ……。

 祖母の声が聞こえる。いやいや、お祖母ちゃん、今は朝だってば。祖母の声に首を振り、ソファの上に落ちた爪をつまみ上げた。

 早起きした分、テレビを見ながら少しゆっくり朝食をとる。毎日見ることにしている占いのコーナーは臨時ニュースに割り込まれた。

「フランスでテロが発生しました。複数のホテルで爆発がありました。人気歌手のツアー中で、邦人の多くも宿泊していたとみられています」

 テレビの中で煙を上げている建物は、昨日の朝、母から送られてきた写真で見たホテルだ。「LIVE」の文字の下のテロップを見る。フランスは日本時間マイナス七時間。こちらの朝七時は深夜十二時だった。

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