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【掌編小説】つめたいおふとん
古くなった肌布団が好きだ。新卒で一人暮らしを始めたときに買ったので、十年近く経っていて、中綿はもう随分へたっている。でも好きだ。触るとひんやり冷たく、柔らかい。自分を包んでくれる冷たいお布団が家にあれば、マリはどうにか一日外で働くことができた。
長年使いこまなくても最初から冷たくて柔らかい布もある。木綿のガーゼを重ねに重ねたパジャマがそれで、手で触ると冷たいが、着ていると温かい。寝間着のくせに、結構いい値段。会社で着ているシャツよりも高い。
前髪が顔にかからないよう、家に帰ってくるとヘアピンで何か所も留める。視界の鬱陶しさではなく、毛先が肌に触れる感触が嫌いだ。眉の上に落ちるような前髪は作れない。長く伸ばして顔の横に流しても、頬やあごに流れてくると鬱陶しく、両側共に耳にかけると野暮ったい。ショートヘアにしていても、前髪に関して納得できたことはない。
「いいなあ、ゆうちゃんは。男だから坊主頭にできて」
彼氏の頭を撫でると、柴犬のような感触がする。坊主頭まではいかないのかもしれない。二年前に一緒に暮らすようになってから、ゆうちゃんは、12ミリとか9ミリとか書いてあるプラスチックの部品をバリカンに付けて、髪を整えるようになった。マリも自分が男なら間違いなく坊主頭にするだろうと思う。美容院代もかからないし。
「あのね、好きでしてるわけじゃなくて、半端に禿げてるとみっともないから潔く剃ってるんだよ」
「そうなの? ていうか、禿げててもみっともなくないよ。ゆうちゃんは筋肉あるから禿げっていうより、スキンヘッドって感じだし。強そうで、いいよね」
マリは祐二の頭を撫でるのをやめて、肩や二の腕の肉を揉む。よい筋肉は柔らかい。そして温かい。祐二と付き合って初めて知った。マリよりもたっぷりとした祐二の胸にぎゅうと顔を押し付けた。祐二の片手で後頭部のほとんどを覆われる。大きな手だ。
「マリちゃん、ダメだからね、坊主頭になんかしたら。女性なんだからね」
「いいなあーーなんで女は坊主頭にしたらダメなんだろう?」
「いや、男もスーツの仕事の人は坊主禁止だと思うよ」
「そうなの? 禿げはよくて坊主頭はダメって変だよね」
意味のないルールが気になる質だ。なぜそうするのか、理解できないことには従えない。
「抗癌剤治療をやった人がスカーフとか頭に被ってるよね。あれがやりたい」
やればいいじゃん、と祐二は返すが、そう簡単ではないのはわかっている。
「会社であれをやってると、外しなさいって言われるよ。でも、今、闘病中で……って言って少し黙ったら、いける気がする」
頭に布を被ると気持ちがいい。顔にかかる煩わしい髪の毛を全て覆うことができる。その下がどんな風な髪型なのか、他人に悟られることもない。
マリはごそごそ動いて祐二の手から逃れると、膝にかけていたブランケットで髪の生え際から後ろを覆った。そんな風にすると、祐二が「可愛いんだから」と甘やかしてくれることを知っている。
冷たいお布団に包まりながら、太ももを撫でる。全体的に脂肪の少ないマリの体で、胸と太ももとおしりだけが柔らかかった。薄くて柔らかい脂肪の上に、ガーゼを重ねたパジャマがふんわりと乗っていて、マリの体と同じ温度になっている。これが自分の肌だったら幸せだろう。厚くて柔らかくてひんやりとした肌に守られていれば、外に働きに行くのなんてちっとも怖くない気がする。マリはガーゼを纏った体を何度も撫でた。
ピピッ、とアラームが鳴った瞬間に止める。朝だ。いつもアラームが鳴るほんの数分前には目が覚めている。仕事のある日もそうでない日もだ。
ベッドからはまだ出たくない。マリの手は体に寄り添うガーゼの感触を愛おしむ。どこへでもこれを着て行けるのなら、気分が楽だろう。会社で着ているシャツは、洗濯後にアイロンしなくていいように化繊まじりでテロテロしていて、痩せ型のマリの肩にぺったり張り付く。針金の細いハンガーに干されたニットのようで、みすぼらしい。
お洒落をしていない地味な姿でも、猫背にならないようにして目線が前を向いていれば、それなりにしっかりした人間に見える。マリはそう信じて、外ではしゃんとするようにしている。ただ今日は疲れていた。同僚の子供が熱を出したとかで、彼女の分の仕事もこなした。細かい数字を見続けた目がもう限界だ。電車は空いていた。ドアの近くは寒いので車両連結部近くの座席に座って、マリは目を瞑った。道路から撥ねた雨で濡れた服が足元のヒーターで乾かされ、体もぬくもっていく。
異変を感じたのは、降りる駅の一つ手前でだった。
他人の手がマリの太ももに乗っている。
ぎょっとしたはずなのに、動けない。声も出ない。マリの方が悪事を見つかったように、薄目を開けたまま寝たふりを続けてしまう。
降りる駅の名前が聞こえた瞬間に素早く姿勢を正し、今起きたのですと強調した。電車はまだ走っているが立ち上がり、一番近い扉ではなくふたつ向こうの扉まで歩いた。早くここから離れて、家に帰りたい。
冷たいお布団に包まりたい。
普段から歩くのが速い方だ。泥が跳ねることなど無視して、ほとんど走るような速度でマンションに帰り着く。玄関から寝室に直行した。
寝室の香りで、焦燥感と荒い呼吸が少しだけ落ち着く。ここは優しい空間だ。ここは平和だ。マリを守ってくれるものがここにはたくさんある。そして、それを汚したくない。マリはバスタオルだけ掴んで洗面所へ向かった。
汗と、他にも何か自分の体から出たものが、嫌な匂いのする体に悪いものになってこびりついている気がする。熱めのシャワーを出しながら、顔を洗う、髪も洗う。労働で汚れた体を洗う。泡だらけにした手ぬぐいで脇やひざの裏を丁寧に擦った。足の指の間もだ。
鏡も見ないで適当に乾かしただけのショートヘアは、明日の朝、なかなか言うことを聞かないだろう。冷たいお布団をベッドから引きはがして、体を包んだ。シャワーで火照った体にひんやりと纏わりつく冷たいお布団は、きっとこの世の誰よりも優しくマリを癒してくれる。目を閉じて、冷たいお布団に包まったまま、ベッドににじり上がる。ベッドの足元にくるりと纏めてある羽毛布団に凭れかかって、体の力を抜いた。ここは平和だ。イスラム風の後宮が想像された。風通しの良い広々とした空間で、肌触りの良い布を体に纏った女たちだけの城。訪れる男は王だけで、使用人も女だけ。平和な場所だ。マリが身じろぎすると、軽く押された羽毛布団の内側から空気が漏れ出てくる。好い香り、平和の香りだ。ここに居る限り、誰にも攻撃されない。
誰にも攻撃されたくない。誰にも攻撃したくない。だからマリはこの寝室に閉じこもる。体に触れるものは全て肌触りの良いものだけにしてある。しかし、ここを出ると誰かに奪われる。傷つけられる。自分に悪いところなど一つもなくてもだ。昔から、いつもだ。どんなに自分を整えても、外に出れば他人に攻撃されるのは避けられない。
先程脱ぎ捨てた服の山を見る。長年着ているうちにマリの肌になじむようになった生地。他人のものでも体でも、勝手に触るやつは悪人だ。人が寝ているうちにおかしな真似をする悪人なぞこの世から消えてなくなればいい。この世からは無理というなら、私の側から立ち去れ。私の前に姿を現すな。マリは目を瞑って心地よい肌触りに意識を集中する。
ピリ、と痛痒い感触が背中にした。
冷たいお布団を引き寄せて、頭まで包まって少しうとうとした。
次の日、背中のピリピリ痛む感触はズキズキに変わった。出かける前はそこまでではなかったし、刺激になるような化繊の下着は着けていないのに。顔に出ていたらしく、同じ部署のお局さんに言われて、午後には早退した。
皮膚科で貰った「帯状疱疹」の薬を飲んだが、家に着いても痛みはなかなか治まらない。ストレスがかかって免疫力が下がるとこういうことが起こるのだと薄化粧の女医が言っていた。
どんなに丁寧に、大切にしていても、冷たいお布団も穿きならしたデニムも、仕事用の無難な服も、自分の肌にはなってくれない。自分を守れるのは自分だけという当たり前のことが、疲れているときには辛かった。祐二が外に出ても他人にあんな風に傷つけられることはない。マリは、祐二に比べて他人に侮られていると感じる。見た目のせいだろう。細くて小さい。化粧も薄くて、服装の色が大人しい。そもそも女というだけで舐められている。尊厳を、人権を、奪ってもいい、無視してもいい。そんな風に他人の目に映るから悪いのだ。痛痒い体に爪を立てて掻きむしりたくなったが、マリは冷たいお布団に両手の平を押し付けた。こうして私だって耐えている。私の体を傷つけることは私にだって許されない。そう気づくと、無遠慮にこちらの領域に踏み入って、傷つけてくる赤の他人の存在が更に恐ろしくなった。
包まっていた冷たいお布団を解き、ベッドから降りる。冷たい床を踏みしめて洗面所に向かうと、棚から、祐二のバリカンを取り出した。
つるり、となった自分の頭を優しくなでる。ああ、この部分はずっとこうして撫でてもらいたがっていたのだ。髪をかき分けることなく、直接触れてくる指先を待っていた。つるり、つるり。バリカンを使ったのは初めてだ。剃り残しがないか頭全体にくまなく指を滑らせて確かめた。何を身に着けてもダメなら、もう本当の自分の肌だけでいい。本当の自分の肌で自分をしっかり守るしかない。
背中の痛みは、気にならなくなっていた。
祐二が帰宅する頃には、もう新しい髪型に慣れ切っていた。部屋着のパーカのフードを被ると落ち着く。首筋や顎にピンピンと髪が当たらない。快適だ。思った通りだった。ご機嫌で出迎えたのに、祐二は困惑していた。
「ついにやっちゃったね……」
マリは笑顔で、フードを外してみせる。憐れむような顔をしていたくせに、マリの頭を見た祐二はぷっと噴き出した。
「やっちゃったもんは、仕方ないね」
祐二が、服の前を広げたので、マリはすかさず祐二の胸へ体をすり寄せる。祐二の筋肉と、祐二の温度になった服に挟まれ、心が凪いでいく。冷たいお布団だけじゃない。温かい筋肉もあればいい。温かい筋肉もあれば、どうにか一日、外で働けるはずだ。
「ねえ、ゆうちゃん。筋トレのやり方教えて」
(了)
この作品に、川光俊哉さんから講評をつけていただきました。ありがとうございます!
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![槙野 世理沙](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/32635205/profile_14feb19c4c3f1814da716b16c9c567b6.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)