人生2度目の回転寿司(19年ぶり)
先日、人生で2度目の回転寿司に行った。
新千歳空港の函太郎という人気店である。コロナの警戒で寿司は回っていなかった。
炙りエンガワの寿司がとてもうまかったので、これだけ2皿めを頼んだ。
これはいやみである。
寿司が好物だが、回転寿司には1回しか行ったことがなかった。それが2回になった。という報告だ。
非常にいやらしい。
しかし、私が自分の家庭環境や、小学校から高校まで一緒だった友人たちの家庭環境を説明するときによく使う言い回しである。自分のあまり一般的ではなかった金銭感覚をわかりやすく説明できる。
私たちの社会には謙遜の文化がある。自分をお金持ちであるように言うのはそれが事実としてもいやらしいとされている。
けれども同時に、あからさまに「そう」であるのに、そうじゃないようにいうのもいやらしいと、私は思う。
例えば、twitterで見かけたこういう意見(正確な引用ではありません)。
「奨学金も借りず、バイトもほとんどせず、親からの仕送りで大学から徒歩10分以内のところに下宿してる大学の友人が『うちなんて貧乏だから』って言うのが許せない。私なんて●●と〇〇でバイト掛け持ちして、欲しいものも買わずに我慢して、大学までは自転車15分かかるし、奨学金が数百万あるから卒業しても当分は返済が続くのに」
みたいな意見。謙遜が嫌われる例。
多くの人は皆、どちらの考え方も理解していると思うのだが、全方位に対して気を遣うのはなかなか難しい。
件の恵まれている大学生の立場からしたら、「自分の家なんて全然普通だよ。お父さんも普通のサラリーマンだし、お母さんも普通の専業主婦だったよ」くらいの感覚だと思う。
けれども視点を変えると「兄弟姉妹2~3人を奨学金なしで大学まで行かせて専業主婦でおれるのは金持ちデスヨ?」となる。
人は、どうしても自分の育った場所を基準値として考える。
バイト掛け持ち奨学生は恨み言を吐くとき、学校に通えなくなった同世代のアフガニスタン女性のことなど考えちゃいないのだ。
回転寿司に2回しか行ったことがない私も、同じだ。
周りの友人たちには割ととんでもない金持ちが一定数いた。
「家の庭の桜がそろそろ満開になるから、『桜を見る会』においでよ」と誘ってきた友人。満開の桜の下で、寿司職人と寿司ネタが待っていた。手巻き寿司ですらない。好きなネタを言うと握りが出てくる。自分ン家で自分の金でやってんだから総理大臣など目ではない。
宝塚ファンのお母さんのためにお家に専用シアタールーム(客席20席超)があるという家庭。
「せんせいあのね。昨日、おうちの池の水をとりかえました。まず錦鯉を池の外に出します」って作文を書いてきちゃう子。
2歳下の弟を中学受験に専念させるために、姉に家の3階の客用寝室(バストイレつき18畳)を与える家庭。掃除は住み込みの家政婦さんが毎日。
羨ましいと思う以前に笑っちゃうエピソードの数々。上記は全て別のお家である。そんなのが周りにごろごろいたので、私も「うちは貧乏」と思ってずっと生きていた。
大学受験を視野に入れ始めるころ。私は指定校推薦で早稲田の法学部に行きたかった。高2の途中くらいまでは、そのための評定平均値を集めていた。
しかし、母が言った。「ごめん。私立の学費を払いながら東京で下宿させるのは厳しい」「大学の寮に優先的に入れるならなんとかなるかも」「どうしても行くならバイトして貧乏生活する覚悟をして」「関西(実家から通える)なら私立でも大丈夫」
これでも私には、奨学金という選択肢はなかった。多分、母にも。そして貧乏生活をする選択肢もなかった。割とあっさり、「じゃあ難易度(偏差値? 当時)同じくらいの阪大法学部を第一志望にするかね。学費も安いし」と決めたと思う。
「普通の」ビジネスパーソンとして働いていて、未だにカルチャーショックを受ける。「こいつの実家が金持ちでさ」とネタにされる同僚の家の大きさを車が3台止められると説明されて、なーんだ、と思う。駐車場の大きさなど地価次第なので、もっと驚くような面白い話を聞きたいのだ。北新地から呼び寄せた職人に握らせた寿司を庭の錦鯉に食わせているとか。
そして今も、私は自分を「普通の」ビジネスパーソンと思っているのだが、労働の負荷に対しての給料の額を羨まれることも多い。
小さく是正を繰り返しても、やはり全方位と感覚を一致させることはできない。そうなってしまうと意識していなければ、きっと「分断」するのは簡単だろう。