【覚書】川光俊哉さんに頂いた講評で勉強中です
この記事で書いた諸々を受けて、千本松由季さんから「川光俊哉さんの講評を受けてみたらいいですよ」と教えて頂きました。千本松さんが紹介してくださるんだから、厳しいに決まってるじゃん……。よちよち頑張って書いたね~~なんてありえないに決まってる……。いやそんなのいらんけど……。
でも今年の私は色々挑戦する私なので。早速「純文学(?)」らしきものを書いて、講評を依頼してみました。
平均3日寝込むくらい厳しい、と聞いていました。他人宛の講評を読んでみて軽くチビりました。素人もセミプロも容赦なくなで斬りです。「素人の割にはよく書けている」とか「プロなのに~~」というのは誠実でないとお考えとのこと。怖いけど、きっと学ぶところはある。本人比では過去最高レベルの推敲(誤字チェック、表記ゆれチェックは特に)をして、お願いしてみました。首を洗って待つ。
川光さんの通信講座は、作品と一緒にどういうことを聞きたいのかを送ります。めっちゃ書きました。「文芸の書き方を勉強したこともないし読んでてもよくわかりません」と。
本当にね、私の文章の書き方って、思いついたところからだだーーって書いて、後から、あ、こっち方向に行けばいい感じに終われるわ、みたいな方法なんです。勉強したことないって怖いですよね。でも、今回色々教えて頂いたことで、ちゃんと勉強したら、私、もっと書けるんじゃないかしら!? という気分が今盛り上がりましたので、しばらくは物語の構成についての勉強をします。決めました。
なんと一週間以内に、講評がいただけました。
お忙しい中、プロ志望の勉強をしているわけではない私のために時間をつかっていただいて、感謝しかない。
川光俊哉さん、本当にありがとうございます。
あれ、ちょっと褒められてない?
触覚と嗅覚に対する執着、オブセッションが
平易な語彙で明確に表現されている。
低俗な感傷ならざる芸術的叙情にかぎりなく近い。
着想、文体は個性的で
作者の問題意識は生きているし
真摯に独自の作風を練りあげていった過程も感じるが
構造に問題がないとは言えない。
構造に問題がある、以外はまあOKでない、これ? 空目? 勘違い?
触覚と嗅覚は、長年、自分の得意分野のつもりで書いてきたし、これからも書いていきたいことだから、それが明確に表現できていると言われたのは嬉しい。
低俗な感傷ならざる芸術的叙情って、褒めすぎですキャーーとはしゃぎました。川光さんの他の講評を見ると「低俗な感傷」を冗長な表現で書いている作品をどれだけ嫌悪されているかわかる。私もそういう作品は嫌いだし、絶対に書きたくない。実績のない素人の「低俗な感傷」は特に鬱陶しい。自分が書くときに、ある程度感傷には浸るとしても、外から見てそう見えてはならない。などと思っていたら、どうやらそのラインは守れているようで安心しました。
この先につらつら書くけれど、自分で「こうしよう」と意識して書いたことが伝わっていると嬉しいし、「ここが何か違う気がするけどどう直すのが正解?」と思っていた部分に対して、勉強してきた人から「これができていないからこういう間違いをするんだよ」、と指摘されると面白い。
これは学生時代の数学なんかでもそうだった。間違いとか失敗は、たまたま表出した現象で、その原因はもっと手前にあったりする。それをその分野に強い人が見抜いて教えてくれたときの私の感覚は、ラッキー! に近いかも。だってそこを直せば今よりレベルアップできるっていうことを教えてもらえたんだから。それもタダで。あと、自分の問題意識もずれていないと分かったことも大きい。
こんなん無料でいいんですか。(1か月ぶり2回目)
すごいんですよ……ものすごく丁寧に指摘を頂いているし、質問したことに答えて頂いている……すごい(語彙力を磨きなさい)。
作品の主題は「触覚」「嗅覚」ではなく
それらの身体感覚を通じて
女性性の否定、男性性の希求に飛躍することであり
ここがその「飛躍」のシーンにあたるが
作者が自分の書きたいことに対し無自覚なので
この展開まで十分に用意されていない。
この作品の主題ってそれだったんだ……! となりました。私が書いたんだけど。
男性性の希求なんて私は全然好きじゃないつもりだけど、確かにこの小説を読んだ人がまともな頭の人ならそう受け止めるしそう言語化すると思う。国語の試験で主題は何かって言われたらこれしかないじゃん。というか、女性性の否定・男性性の希求という言葉にちょっと忌避したい気持ちを持っただけで、そういう言葉ではないにしても私が描こうとした感覚を一般的な言葉にしたらそれだわ。明確な芯とそれを言語化する語彙力や表現力を磨こう。
「マリ」の恋人「祐二」が機能していない。
仰る通りすぎる。私は主人公でない男性キャラを無自覚に壁打ちの壁にしがちだ。男性の内面に興味を持つようになったのが、今の夫と付き合い始めてからだから、30なん年生きてきたのに5~6年しか、男性に興味を持っていない。まずいぞ、小学校も出られない。
「女性性の否定、男性性の希求」をはじめた「マリ」に対し
「祐二」は本当に受け入れる態度をとるだろうか。
男性性の象徴として「祐二」を登場させたのならば
かならず「マリ」との関係性が変化する。
あーー嫌です! 祐二にマリを拒否させたくはない、絶対。祐二に拒絶されたらマリが可哀想だ、それは避けたい。小説の中でくらい、極端な行動で身を(心を)守ろうとする女を受け入れる男を存在させたい。
じゃあどうするか考えろって、私。読み手に無理に受け入れさせるな。ここはもう少し考えて書き直す。
この程度の事故と、漠然としたストレスでは
「飛躍」できない。
あるいは
「この程度」でも変化が可能な「マリ」の特殊な価値観を書いていない。
くっ……これもだ……これも変えたくない。「この程度の事故と、漠然としたストレス」と書かれた部分の内容は、いつもはしゃんとしている主人公が仕事で疲れて、電車が空いてたので座ってうとうとしているうちに、知らん男に太ももを触られたストレスで、帯状疱疹になりました悔しい、というもの。
多分、川光さんの仰ってるのはそういう意味でじゃないと分かった上であえて言うと、服の上から太ももタッチ行為を「この程度の事故」扱いされるとめちゃくちゃ悔しい。どうせ男の人にはわかんないよね! みたいな。でも小説の中で伝えられてない私が悪いのは明白。日常生活で感じているこういう悔しさは、基本的には男性にわかってもらえないことが多くて、そのことに更に悔しいと思っている。だったら、小説の中でくらい深い実感を伴わせるように書かなくちゃ、なにか表現する意味がないですよね。
読者的に「この程度」でも主人公にとっては一大事になるという特殊な価値観を書くべきなのね。となると、安直に「主人公は過去にもっと大きな性被害に遭っていて、フラッシュバックがあって、今もまだカウンセリングは必要で」とかやっちゃいそうだけど、それも私は避けたい。あくまで価値観だけで行きたい。なぜなら私がこの主人公的な価値観で生きているから。もうちょっと考える。
(一般論に逃げれば、知らん男が自分の体をベタベタ触ってたらそれは普通に一大事だし、それを嫌悪し、またそんな風に扱われたことを悔しい、許せないと思うのは全く特殊な価値観ではないと思う。痴漢あかん。それを分かるように書く必要があるんだ)
(あと私がそうだからというリアルを書けば、リアリティのある描写になるわけでもない。)
全体像が完全に見えている必要はないが
はじめの着想を越えてなにができつつあるのか
客観的に把握できなければ調和した作品はできない。
この作品の主題はタイトルの「つめたいおふとん」では象徴されない。
把握できてないです。全く。客観的以前の話。
夫に読んでもらって、「タイトルがなんか違うような気がする」と言われました。夫は、古典~純文学~漫画やラノベ、実用書に学術書まで本をたくさん読んできたけど、バリバリ理系男子で、別に普段から文章を書いている人ではない。でも主題とタイトルがあっていないことは感じたみたい。
もっと他の描写を増やして、タイトルは「〇〇な肌」とかが正解なのかな~~痴漢されたときにデニムを穿いてたって描写を消したんだけど、最後の方でそれを穿いてイキイキ強く活動する主人公を描いて「私を守る青い肌」とかか? う~~ん、わからんな……と言いながら出しました。「肌と筋肉と鎧」?? 他の疑問点を解決してからタイトルをもう一度考えよう。
プロット、伏線、ストーリー構造の明確なエンターテインメント作品ではなく
人間の身体性などを書きつくすことに興味があるなら
いわゆる「純文学」を志向してはどうか。
先日の、千本松由季さんに頂いた講評で、貴方の文章ならショートショートじゃなく他のものも書いた方がいいと言ってもらったんですよね。私が……純文学……? プリキュアみたいに言う。でもやったことがないことをやるのは面白い。やる。書いてみよう。こういう挑戦は人生にプラスしかないでしょ。
着想、文体を生かしきるための構成に無頓着すぎる。
文体を生かすための構成というのがあるんだと初めて知る。
普段関わらない人に接触して意見してもらうと、こうやって知らないことと出会う確率が高くて面白い。自分ひとりで勉強していくのもいいけれど、専門家の道しるべがあると進みが速くてより楽しめると思う。
あと、自分の文体のよさとか個性とかって何なのだろうか。わからない。講評を頂いた日、会社から帰ってくる電車の中で悩みまくって、ホームに降りてからもベンチに座って考え込んでた。早よ帰れ、風邪ひくぞ。
「マラソン」と創作が意味のある比較だとも思わない。
油断した……作品を書くときは、意味不明な比喩を絶対使うもんかと思っていたのに、質問パートで油断してバカげた比喩を使ってしまって恥ずかしい。二度としない。戒めの為に晒す。
「長いもの」を書くことには
「書くのがめんどくさい」以上の、また、以外の
敬遠する理由がない。
めんどくさいというのは、その言葉を避けていたけど本当にその通り。なんせ、普通の勤め人って割と時間がない人が多いと思う。私なんか同程度の稼ぎの勤め人としては自由時間の多い方だと思うのだが、それでも時間がないとか言っている。時間はどうにか作ろう。
いやしかし、「書き続ける方法」的な指南記事を見ると、結構無茶が書いてあると思うんですよね。「たくさん読め、ジャンルを問わず時代も問わず何でも読め、とにかくたくさん読め」「たくさん書け、毎日書け」「書いたものは人に見せろ」ってのは誰もが言っている。それに加えて「7~8時間くらいちゃんと寝ろ」「新人賞を受賞しても今やっている仕事は辞めるな、食えるとは限らない」というのもよく聞く。勤め人ならここだけで最低16時間くらい消えてますよ。風呂食事抜いてですよ。
でもって、「創作されたものでなく実際の体験を大事にしましょう、あちこち出掛けましょう」「いろんな人に会いましょう」などもあるし、更に「映画や舞台も見ましょう。ドラマも見ましょう、漫画も読みましょう」ときたりする。
一日何時間計算なのか……繰り返すが、睡眠時間もインプットもアウトプットも削っちゃいけないらしい。計算が合わない。
登場人物、シーン、会話などの部分が
全体の主題を表現することにほとんど貢献していない。
なにが書きたいのか、なにが書けるのか、なにを書きつつあるのか、はっきりと意識していなければならない。
かっこいい……そうなりたい。いや、なる! まず書きたいものを明確にできていない自覚はある。なんせこの作品は「このお布団キモチイイわ~癒されるわ~電車乗って会社なんか行かず、ずっとここに居たいわ~~」の感覚一つからなんとなく書いたら出来上がったのである。はっきりとした意識もへったくれもない。着想はそこだとしてもちゃんと考えよう。
ひとつのアイディアを「短いもの」にまとめるほうが、よほどむずかしい。
実際、この作品でまとめきれていない。
「ショートショート」ならざる100枚程度の短・中編小説で書くべき主題の深さを持っている。
完璧な構造、一貫性、統一、調和を求められる「短いもの」より
多少の冗長さ、破綻、遊びも許容される「長いもの」のほうが初心者には手をつけやすい。
まとめきれていないという指摘よりも、主題の深さを持っていると言われたことにまず喜ぶ。
短いものの方が難しいと、言われてみれば確かに、短いものだとすべての文章が完成されていないといけないなとも感じる。有名作家でも長編小説になると全部が全部完璧な文章じゃないいようにも感じるから。
私のnoteにしては長くなってしまった。覚書なので許してください。
さらに質問したいことをまとめて、川光さんに再度お願いしたので、回答が頂けたら追記します。
川光俊哉さん、私のためにお時間を使ってくださいましたことに、改めて感謝申し上げます。
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