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【小説なんだか随筆なんだか】アサリと猛ダッシュする生活

 ああ、お出汁のきいた味噌汁が飲みたい。
 いや、貝だ。
 アサリ貝の出汁がきいた汁物が飲みたい。
 味噌汁でなくても。澄んだスープ、海鮮チゲ鍋もいい。アサリアサリ、アサリが欲しい――。

 そこまで思い詰めてスーパーに寄ったのにアサリがなかなか見当たらなかった。鮮魚コーナーをぐるぐる回って、アサリはふたパックだけ。隣に置いてあるシジミのパックには20%オフのシールが貼ってあるのに、アサリは正価で、398円。なんてこと、肉より高い。
 安い真空パックのアサリも、あるにはあった。量が少なくて割高だ。下唇を噛みながら398円のアサリを自宅へ連れ帰る。悩んでいる時間ももったいない。

 どこの家も似たようなものだろうか。最近じゃ専業主婦なんてめったにいない。共働きで、基本的には半分ずつ家事をやり、生活費も半分ずつ。少なくともうちの夫婦はそう。年齢は夫の方が少し若くて、年収は夫と51:49くらい。残業がほとんどない私の方が時間当たりの稼ぎで言えば高い程度。残業がないんじゃなくて、しないんだけどね。

 アサリのパックを調理用ハサミで突き刺して水を抜く。調理台に飛び散らないようにシンクに置いて、パンパンだったパックが大人しくなってからフィルムを引っぺがす。伯方の塩をぶちまけて、水道水を満たして、郵便受けから取ってきた地域の情報チラシを上から被せる。薄暗くしておいた方が砂ぬきがうまくいくらしい。「海だ~海に帰ってきたぞ~」と暗示をかけておく。うまくいくかはしらんけど。
 そして風呂の準備をする。私も風呂、アサリも風呂。
 風呂の水は帰宅してすぐに抜いておいた。靴下を脱ぎ捨て、全体にバスタブクレンジングという魔法の洗剤をかける。洗面台にも。洗剤を洗面台の下に片づけて、乾いた布巾で鏡の汚れを少し擦って。洗面台を流して、バスルームを流して、「ふろ自動」ボタンを押して。

 イメージは、短距離走を何本も走る感じ。ああ、シャトルラン? 今でも体力テストでやるのかね。座らない、立ち止まらない、多くを考えない。ハイ次、ハイ次、ハイこれ、次アレ、ハイッハイッハイッ!
 短距離走じゃないね、シャトルランは持久力テストだった。すぐそこまで、ほんのちょっとでしょ、そのくらいできるでしょ、を延々と繰り返すのが生活だ。生活であり、家事であり――毎日必要なことだ。

 平日は包丁を使わないと言ったら、会社で「休日にカット野菜をきっちり作っているすごい人」扱されていたことがあったけれど、そんなわきゃない。葉物野菜は手でちぎるんだよ。
 平日は調理なんてしない。休日に作り置きしておいたもので食いつなぐ。足りなくなったら買ってきたものを追加。たまに焼き魚とか。アルミの鍋セットとか。アルミ鍋のセットですら、具材の底に埋まっている出汁の袋を掘り出すことと、テーブルに鍋敷き代わりの新聞を準備することなど、地味に面倒さを感じる。どうしても食べたいものは今日みたいに突然入れてみるが、他の家事を調整に調整してから。まあ稀だ。
 調理をしなくても、冷蔵庫に残してある食べ物から今日の分を取り出して適切に温めるだけでも、なんだかんだ15分くらいは使ってしまわないか?
 ああそうこうしてるうちに風呂が沸く。化粧を落とさなくては。

 残業はしないのだ。できない。
 定時に上がって、一番早い電車に飛び乗っても、家に着いてから就寝時刻まで使える時間はほんの4時間。朝早起きして捻出した分を合わせて5時間。まるまる自由時間にはならない。衣食衛生は毎日必要なことだから。そして睡眠時間も削るべきではないから。

 オードリー・タンの話を聞いてくれ。難しい問題に対処するときは8時間眠り、もっと難しい問題に対処するときは9~10時間眠るらしい。すばらしく具体的な解決策。都会で勤めに出ている日本人がそれだけの睡眠時間を確保しようとすると、帰宅してから風呂以外は何もせずに寝るしかないのじゃないか。10時に寝て6時に起きても8時間睡眠で最低限なのだ。10時間寝るなら8時に布団に入らなくては。いっそ会社に住むとか。

 やっぱり仕事を辞めるかぁ。
 30代になって体力が落ちて来たと実感した時から何度も考える。ド昭和弊社、職場に来て机の前に座っていることが給料をもらう唯一の方法だと考えている。地震で電車が止まって4時間歩いて出社した奴が褒められていたが、残りの仕事時間は一体? 通勤に体力と時間を使いすぎだ。

 せめて風呂ではせかせかしないと決めているのに、頭皮の泡パックをしながら顔のパックもして湯船に浸かるという技が、深く考えもせずにできてしまう。染みついた時短のテクニック。合理性の追求。生活全てこれになるのも考え物だ。
 
 アサリの味噌汁はいい。だしを取らなくていい。鰹節をお茶パックに詰める面倒くささは、仕事の後だとヘビーになる。砂抜きできているはずだと信じて、アサリを流水でガシャガシャ洗う。「ごめーん、海じゃありませんでしたーー」真水と共に鍋へ、点火! 蓋をするのは、人間どもめ騙しおって許さんぞという呪いの声を聞かないため。

 アサリの味噌汁はいい。栄養を啜っている気になる味がする。おいしかった、今日も幸せと感じられたら、それでオーケー、いい生活。

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槙野 世理沙
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