「しわ」と力のメカニズム
おはようございます!と言いたい気分です今日は。そのくらいレースのカーテン越しに差し込む朝日が気持ちいい。昂らせるわけでもなく、ただちぢれた不安の塊を洗い流してくれるような。でもちぢれた黒い系の塊って濡れると不気味さ増しますから、後でそれを発見した時どうするかですよね。まあ答えは出てるんです、次の朝に回す。できれば天気のいい、爽やかって最初に名づけた人を無邪気にたたえてしまうような朝。あとはトーストの小麦の香り、コーヒーをこれから淹れるぞという時間帯、坂口恭平の『休みの日』『ひとつの鍵』『春のせい』が流れている。僕はこういう朝の雰囲気を、無邪気と表現してみている。余裕とか充実とか、満足感とかそういう人のクソみたいな、それでいてソウルメイトみたいな邪念の地平から、唯一浮かんでのほほんとぼーっとしていられる時間、していなければダメな時間。僕はいつまでもこれだけを幸せと呼びたい。俺がなんかして頑張って、とか、誰のおかげさまでありがとうございます、自然の恵みを云々、みたいなことの一切は、淡々とやりたい。当たり前ということではなく、つまり当然と言い換えられるがそうでなく、それこそ自然に。その自然を歪から守るために、毎朝わたしは幸せを見つける必要がある。洗われ、現れる可能性があるということを肌感じなくてはならない。そうすることなしに、長々とかは知らないが生きていくんだとしたら、それが不幸かもわからないが、やだなと思う。それを「おもんない」と表現してしまうと、また矛盾が目につきやすくなることを最近認識している。もちろん矛盾を孕むことそれ自体に何も問題はない、まあそれは具体的な状態によるが、とにかく自然であるとは言えそうである。ただ「面白い」という言葉を使うと、少なくとも僕は人の矛盾を悍ましいものと断じたくなり、それを攻撃したくなる。なんというか、僕はダウンタウンネイティブなので「面白い方がいい、かっこいい」という基準はもう濾してもかき出せないくらい溶け込んでしまっているのだが、というか俺だけではないのかな、そこから、松ちゃん浜ちゃんが何か大きなものを震わせてから、世界が変容したのかな。その世界に僕がたまたま生まれただけであって。どっかの生協だか小学校の司書だかが「そうして亀(だったかな)は存在するのですか?」という質問に対して「亀のいる世界にあなたが(私たちが)生まれた」みたいに返事していたのを思い出す。僕は知らなくてはならない。面白いという言葉を使うんであれば、彼らの成したことを、いや成していないことこそに目を向けるべきなのかもしれないが、それを見つけるのは難しそうなので近い方からやる。骨が折れそうだが、この「面白さ」への欲求はどこからきて、どう変容してきたのか、あるいはそれが世界をどう変容させてきたのか、その歴史を知りたい。こびりついているが心当たりがないというのはとてもうっとうしい。そいつがどこの誰なのかわかれば、まあ仲良くやっていけそうな気もするのだが。でも村上春樹の書く文章に含まれる、形のわからない、ひたすら不明瞭なものを見ていて「こいつが誰なのか調べなくてはならない!」とは思わない。不思議だと思う。仮説を立てるとすれば、僕たちは、あるいはわたしたちは、それがどこからきたか知っているからではないか。そいつが誰だか脇腹の毛ほども知らない輩であっても、そいつが同じ千葉県出身だとわかれば、あるいは大学時代を過ごした宮城出身であるとわかれば、なんだかうまくやれそうだと思えてしまうように。なんなら仲良くなれなくてもいいと思う。そいつが同郷の血の流れた、似たような色を持つ人間だとわかれば、興味はあるんだけどもそのままでも別にいいやと思う。僕が村上作品に感じるのはそれか、全然かすりもしないくらい違う気もするものの。まあ、こういう暴論でもなんでも一回通っておくと、その道筋は僕の脳みそに「しわ」として一つ、また一つ二つ三つと確かに刻まれていって、それだけでもいいではないかと思う。一度刻まれたしわは、その視覚的なイマイチさと引き換えに、なのか絶えず僕たちを助けてくれる。仕組みはわからないし、目にも見えないのに、私たちはそれを怖いとは思わない。その手でコントロールできるわけでもない、僕の知らないことを知らない場所で一生懸命調べてくれたおかげの科学ですらまだ証明できないその力を、僕らは自然だと感じる。ただ心強い、一緒に生きていきたいと、時にはこの力を誰かに届けたいと思ったりもする、迷惑かもしれなくても。なぜ怖くないのか、どこからきたか知っているからだ、「しわ」だ。皺が刻まれた日の、その瞬間のことは忘れてしまっているかもしれない、それでも「しわ」はそれを忘れない。「しわ」にとってそれはたった一つの体験だから。他の何と見間違うこともない。だから「しわ」はその体験を、そこから得た何かの力を、他の誰かにも分け与えようと、調子のいい時とかにはしたりする。そしてその先もまた一つしかない。それが刻まれた脳みそを持つわたしだ。そうやって持ちつ持たれつやっているんじゃないかという気がする。その仕組みがあろうがなかろうが、とにかく考えて書いて、「しわ」だけ刻んどくか、みたいなものに経験的な信頼をわたしは置いている。