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鬱について 1

鬱のときはアイデンティティを求める。とにかく、人のやっていることをやることを否定する。たとえば、苦しいのならとにかく書けばいいじゃない。とか、空をみて、これを書くならパステルみたいにぼんやり色を、しかしパッ切り重ねていける画材じゃないとな、と思ったとき、次に思うのはだいたい「でもそれは坂口恭平がもうやってる」だ。驚くべき傲慢さというか、あなただって、その、とにかくこれやりなさい、というのにどれだけ救われたの、とあとで呆れてしまうというか、同時進行でそのときに呆れてもいるから苦しいのだが、とにかく僕が恩知らずに走っていく様をみているのがしんどい。見ていられない感じがある。が、そうするわけにもいかないわけで、精神の体力が7割、8割そちらの、自分の周りを否定するところにもっていかれて、1割くらいは世界を否定している。だがそれはほどほどでやめとけばいいとなんとなく鬱の僕もわかっているらしく、やめるのだが、それを早々に切り上げれば切り上げるほど、己のまわりに向く矢印は太く大きくなっていく。そのスパイラル。抜け出せないことはないのだとわかっている、わかっているといっても頭では分かっているのだが、とよく言われるようなそれで、つまり、偉い人が言ってたからそうなんだろうという程度、だからとりあえずそれも否定しとかないと潰れるので、俺は俺だ、とかいってみて、僕の周りにまたバッテンがひとつ増えるから、しんどい。バッテンにはキーチェーン?みたいなのがついていて、もう増えれば増えるほど大変。物理的に思い。一日に使える体力は限られているから、ちょっとずつ、その否定ひとつひとつに体力が削られていくのが、少しの重さのバッテンをひとつずつ体に結び付けられていくような感覚に似ているのか、ほんとうに、物理的に、俺が重たくなっていく。ここまでいってようやく、癒しのフェーズに入る意味がでてくるのかなと思うが、別に常に癒そうとしていていい。それでもやめられない否定があるが、それはそれとして、まあ否定をやめるというか、対話できるところから対話していくというか、ヴァン・ホーエンハイムみたいなことをしていくわけだな。全部、今向き合えるわけではない、わけがない、というところに救いがある。

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