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改行は/笑い方

おはようございます、9:16ですかね、今日も元気に開業して参ります。開業だのなんだの言ってるときは家で、それもPCで書き始めるとき。

詰まったら改行。改行は見やすさを担保するためのものではなく、ノる流れを切り替えるための手段だ。む、どうにもこのままじゃあ頭の中に元々あったことばをきれいに整えて、かっこつけてよそ行きの服着せて外に出してるだけで、肝心の僕の脈動とはなんら関係のないところで作業をすることになるな、となるとひと区画ずつ肺に送り込む道なのか心臓から戻ってくる二酸化炭素が通る道なんだかわからないけど封鎖されていって少しずつ身動きが取れなくなってくるのをわかって、もう書き切るために書くのが100%、思っていることを綴るのではなく論理を論理たらしめるのが主題に置かれてしまって、そうなるともうむっちゃつまらないじゃないですか。飛び移りましょう、別の舟に。

流れる、流れる、これだけはほんといつでも分からなくならない感覚なんですな。頭で考えなくてもわかる、体を楽にする、楽しいことだけをやる、はわからないときもある。流れる、流れているところへいく。滞ってもどこか、流れている場所があるからそこにいって、もともといた場所からすればそれは耐え凌ぐ、時間を稼ぐみたいな意味を持つのかもしれないけどこちらではそうではない。圧倒的に生きている、ここを選ばなければ死んでいたとか考える暇もなく、ただ圧倒的に生きているとわかる。感じる、とかわざわざ人間がそういう動作をする、と名づける前にもうそれは「わかっている」。言語化とか、要らんやろと思う。したからなんやねんという。方法論にはそりゃ必要だけど、自分の「繊細さ」とか不安とか、そここねくり回してどうなんねんみたいな、変なことしてるつもりでやる分には身体を楽にするからいいのだろうけど。まずは何が要ってなにが要らないのかだろう。

なんだっけ、なんかさっきの話と繋げて喋りたいことがあったんだけど二つくらい、まあそのうち思い出すからいいんだけど。とは保坂和志の言葉。どうせそのあと思い出す、喋り続けてさえいれば、音を出すか、文字にしとくか、あるいはまったく関係ないように見えるが体は、手足はたしかに動かしておくか、そのどれかをつづけ、どこかでもといた場所に足をつけていれば思い出す。足をつけたままどこかへ飛んでいく、いやぴょんぴょん飛び跳ねるのほうが僕のイメージには近いかもしれない。でももっとするする、跳ぶ、着地する、いま空中にいる、みたいにはっきりした動作への認識のないままその移行は進んでいくから、現に意識的にそれwやろうとするのならぬるっと移行していくのが心地よいから、飛び跳ねるで100%言い尽くせているわけでもない。100%言い尽くせていないのだから0から1を生み出したみたいな顔して言語化とかいうんじゃねえよ、と僕はいつも怒っているのだが、まあやろうとしなきゃ、いますぐできること以上の強大なパワーとビジョンでもって自分をそちらの方向へ引っ張っていかなきゃどうにもならないというのもあるだろうからな、それにしてもここは死ぬまで納得いかないんだろうなと思うよ。

このへんは自然言語というものについていい加減調べていかないとわかりようのないことなのかも。ちょっと前までは千葉さんの文章によく出てくるがいまいちなんのことかわからない言葉枠は身体性だったのだが、今一番アツいのは自然言語。たぶん彼の使い方からしてピュシスとか象徴秩序とかそのへんの話を大前提としてひとつ論理の世界を展開していく浅田彰をまずは読むといいんだろうな、まずは、かどうかは知らないし多分違うとの言いようはいくらでもあるんだろうが、今僕の手元にこれがあるのでこれが一番近い。なんだかんだで90ページ以上読み進めてきたよ、まずは半分まで。途中いろんな本にはまっちゃって、またこっちが流れ始めたので帰ってきた。飽きる、もむずいというかリアルタイムで知覚のしようがないからな、というかそう考えた方がすっと体が頭が動くからそれが正しいのだと思っておく。うぐぐとなったら別の流れを探す、ノってきたらそれが「別の仕方」だと言えるようになって、前俺がいた場所はもうどん詰まりだったんだ、俺はあんなもんとっくに飽きてたんだと自信をもって言えるようになる。自信を持ってからじゃダメだ、いくらでもひどいことが言えてそこに際限がないから。正しいからなんだ、死んだら終わりなんだぞ、生きるために行動しろ。

11:00、ゆっくりペース。もっとも、起きた時間が遅め。遅いのだとわかっていたから目視の回数が極端に少ない。目に入ってはいるが見えはしないように時計を何度かみた。化物語と、佐久間さんの住んでいるマンションについてのインタビューをみる。自宅での作業のいいところは時間を気にせず、なにも浮かばなくていいからとにかくデスクに向かおう、ができるところだと言っていた。アイディア出しに詰まったときは単純作業をする、掃除とか料理とか、料理入っていたか怪しいが。僕の毎日書いているこれが単純作業にあたるときと、仕事にあたるときがあるのだと気が付く。その「とき」は重複し得る。並列、とも違ったやはりレイヤー的な重なり方。収支計算は単純作業、バイト先でミスをして、その時起こったことを感想を交えずに書き連ねるのも単純作業、同時に僕の恣意の及ばない「ところ」で結合と切断はおこなわれている。おそらく僕の身体に、必要か、必然か、すなわち僕という人間、もはやピュシスには還らない、想像することすらほとんどできなくなったといっていい存在にとっての恣意的な自然を僕がどう引き受けていくとよいのか、気持ちがいいのか息苦しくないのか、流れていくのか、ここでわずかに、やはり僕の意図しないところでピュシスへの存在の還元が起こる、それをみて僕は真新しいものを見たと歓ぶ。ハガレンを、ハイキューを読んで、ペンギンの問題のカードゲームを自作していたときのような心震える体験ができる。それしか本当は要らないんだけどな。そのためにまた単純作業が要るんだ、仕事か。となると仕事ってのは、単純作業と切り離されたところの仕事というのは、俺の意識できる範囲では、つまりまさに今僕がノっているつもりの流れ、レイヤーのなかでは、もっといえばこの象徴秩序を当たり前だと思っているうちは、あるいは真っ向から食ってかかっているときは、おこなわれていることにならないのかな。だからといってやらなくていいとはならないのが単純作業の厄介なところで、人を死に至らしめる「暇」から僕らを救う最強の薬でもあるんだろう。

さてさて1:25。いろんなことがありました、飯を食い布団に入り腹を壊し我慢しトイレに行き、また書く気になりました。そんなに慌てたって今日やることもないしね。昨日タケトの結婚式に向けて3人が彼の実家へ取材に行ってくれた、ちょうど定例会議の日だったから早めに家に下ろしてもらえたヒナタから今回の遠征のことをその日のうちに聞くことができた、いい、両親からのメッセージをもらえたみたい。二次会での余興とは言えど僕たちがそこで皆に時間をもらって何をみてもらうべきなのか、ふざけるのか、作り込むのか、どう遊ぶのか、俺は楽しんでそれを作れる状態か?ひとまずの、というよりはもうこれでいくんだろうという答えが昨日のうちに出た。今日軽く手をつけ始めてもいいし、まあまず間違いなくメッセージの映像は見せてもらうんだろうから今は落ち着いている。休みの日があったら本当は結婚式の余興制作すすめるべきなんだけどなあ、と僕が思っていたのはもうまるっきりどの方向に進めて、どうしたら完成するのかをはっきりさせたい、もしかするとなあなあで完成しないままときがきてしまうのかもしれないという不安をとにかく拭いたかったのだ。静岡遠征がなされるまではどうやっても何も決まらないのだと直感はクールダウンを求めていたが、手を動かさなきゃ終わらないんだぞ、いまサボってて大丈夫なのか、お前は遠征に参加しない代わりに企画班として断続的なアイディアだしを一応求められてるんじゃなかったか、と一見僕の直近の行動を分析した上で作られた言語システムみたいなものはそう言っていた。昨日まではなにも決まらなかったし、そういうことならと不安は抱えつつも決めるつもりもなかったし、昨日の夜ちゃんと決まった。

バイトのない日、2024年2月26日現在の僕がいうところの「休みの日」をこうやって1日家で過ごしているのは久々のことだ。昨日カタクラがちょうど明日の夕方まで暇なんだが!?とおたけんでいたが、返事だけして金もなかったので何も決めずに話がどう転がるか見守った。マツエも参加できるみたいだったが、あいつはお金というよりは時間と体力の使い方においてドケチだから、あいつの地元にみんなが集まってくれるのならいいよと言っていた。カタクラは就職するにあたって横浜に移住したから、俺としてはまだ浦安の方が一杯飲むのにはよかった。一杯飲むかラーメン食うこと以外に耐えうる財布の内容ではなかったからマツエの参戦には少しばかり心が躍ったが、場は流れた。明日は参戦できないが今晩は暇なタツヤがあれやこれやと冗談を散らし、俺たちってこうだったな、昔からしょーもないことに“”をつけて含みをもたせて遊んだり、言葉を言葉そのものとして転がして遊んでだから気が楽で、受験生をやってる時なんかはTwitterを封印する必要もなければそれを吐口として使う必要もなかった。紛れもなく心を平穏にする、現実宿りのシェルターの役割を果たしていた。今はどうだ、というか高校生である当時から、あんまり身内受けのゴシップはツボにはまらなかった。中学生の時も小学生の時も、知ったかぶりをしてなんとかみんなが使ってる言葉を覚えといて、使うタイミングを間違えないようにだけしてそういう時間をやり過ごしていた。どうでもいいというわけではなかった、誰々ちゃんは誰々ちゃんがどうで、に魂を感じた小学生の頃なんかは血が煮え繰り返り滾るような思いだったが、そうでないとわかったときにはふっとある文脈から離れて、こいつの笑い方かっこいいな、イケメンがやる笑い方だな、楽しそうな笑い方だな、とおもに笑い方の研究をしていたのが中学生のとき。大袈裟か、ジンのかはっかはっと音の途切れる笑い方と虫眼鏡の声帯が転げ回るような知育玩具からなる音くらいだった。僕が僕の笑い方に取り入れてみたのは。

今日の雲

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