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境界、前後、今

7:38執筆開始。朝イチイーフト、敗北からスタート。ディビジョン6まで上がってきたということで、プレー人口の分布が表すようにここから先は選手の質で圧倒的に上を取られていてかつ意欲的にこのゲームに取り組んでいる奴らと戦っていかなくてはならない。先ほどマッチングした相手はワントップがファンバステン、後半からインザーギとかいう常にピリついた空気をボックス内に漂わせるコンビだった。いやほんまに強くなってきた。2試合目はギブアップした。マッチングした後の編成画面で時間いっぱい使ってきたあたり違和感はあったが煽り厨だった。とはいえボールを持たず、(8:05再開)最小限のパス数でゴールを狙ってくるあのスピードは非常に効果的でした。やけにキーパーが持っている時の出しどころが見つからないと思っていましたが、相手は3トップに2枚インテリオールは高めの位置をとり陣形を採用しておりいーフトでは守備時にその形が変わることは特にないため、4バック+アンカーのロメウにはそれぞれマンツーマンで守備者がついて回っているみたいなもんですね。ですから僕は早めに相手のアンカー脇のスペース(現実のサッカーでブスケツの脇とか言われても全く見えてきませんでしたが、いーフトでアンカーが孤立するフォーメーションを使うとよくわかります)にボールを送り届けて、あるいはウインがーに一個飛ばしのパスを送ってインテリオールとワンツーをはかるなど、とにかく早めにボールを前につける、裏へ長いボールを放り込むことを徹底した方が相手は嫌だったんだろうと思います。一つ前の試合で遅攻がかなり効いていたため、かえってそれが僕の攻撃の幅を背編めることになってしまっていたようです。ウイイレ末期のムゲンパスアンドゴーAmazonリバーウェーブも当時は馬鹿にしていましたが、中央に選手を固めてショートパスで素早くカウンターを展開していくやり方はナーゲルスマンも実践してましたしスマンって感じです。まあそれをわかっててやっていた人なんて一人もいないと思いますが。そして先ほど、というかもう20分くらい前ですか、三敗目を喫しました。これはディビジョン6からのストレート昇格に暗雲が立ち込めてきましたかね。ただこの試合だけ負け方の経路が違って、毛色がちがってと変換するつもりでしたが僕の無意識にいた西尾維新が手助けしてくれたおかげでなんか厚みがでました。3試合目の相手はベガルタ仙台をチームアイコンにしていて、チームパワーも2800付近と全く同じくらいでした。3000超えていない相手とマッチングするのは結構珍しくて、5試合に一回あるかないか。こちらとしては二連敗のあとなんで緊張というか気負いはなく、なおかつ前の試合でもっとガンガン早めに攻めていく必要性がある場合もあると痛感したので、丁寧に相手がプレーしてこようがこっちがどう攻めるかは向こうの陣形次第(やはり可変とかフリーマンを極めて実現しづらいこのゲームでは初期配置とどこにどんなプレースタイルの選手を置くか、というのがいわゆる「チーム戦術」の根幹を担います)という心持ちで臨むことができました。その甲斐あってかあっさり前半で先制に成功しました。どんな決め方かも覚えていないくらいあっさりだったんだと思います。ラファシウヴァと孫興民あたりが絡んでいた気がしますが、ラファに関してはいつもそう。ガチで有能なので無課金は絶対に獲得しましょう。サイドハーフのあるフォーメーションで右に置くと使いやすいです。僕はいちおう初めたての頃に現状のバルサを配置で再現しようとしていたので、今も名残で前5枚が各レーンに散りばめられているものを選んでいます。つまり基本的には3トップ+2OMFと1トップ+2列目4枚横並びですが、今は後者がお気に入りで、特に不便も感じないし楽しいのでしばらく使っていくと思います。生粋のウインガーで使いたい選手が出てきたら難しいところですけどね。左サイドハーフだったらFWをおいてもいい、むしろ前半は起用していきたいが右は絶対本職MF、なんならSBというこだわりがあります、というか意識しているんだかよくわからないまま、気がついたらデータの集積として癖のように顕現しているという感じ。で、そうでした三敗目なんですが、先制してよしよし、とりあえず1勝目はいけそうかなと期待が高まったところで妹の「行く」が出たわけです。一階から。すなわちもちろん駅まで車で送れという意味ですね。切れそうになりながらはい、ちょっとまってねーとなんとか前半をやり過ごしますが、妹の声をかけるタイミングのギリギリさ(徒歩で15分くらいの道のりで、発車5分前に家を出たいといい出すこともある。まあギリ間に合う)を鑑みれば後半をやりきるのは6分以上かかるだろうし難しい、前半のうちに2点目を決める大チャンス、あのマチステルの抜け出しからのキーパーとの一対一を沈めておければ。しかし迷って足踏みしているくらいならさっさと送り届けてタイムアウトの昨日やらマックスに活用して、操作はできないから2失点くらいで勝手にAIが抑えてくれることを信じて駅に向かったほうがいいということで、後半開始早々にタイムアウトをとり、車を出しました。ただこうなると害意があろうがなかろうが、相手にとっては不快な可能性が高い。しかも僕の場合は一度でも「そういうプレーヤー」というレッテルを僕のどこかにはっているプレーヤーを生み出すことに底知れない恐怖を感じてしまうのでどうしたものか。結局二つ目の信号待ち、赤が青に変わるのをみて動き出すと同時にギブアップボタンを押しました。俺はただ時間を稼ぎたかっただけなんだとわかってもらうにはこうするしかない。1-0、ようやくマッチングした同レベルのスカッド、残り45分ここからが美味しいぜというところ、前半の流れからして相手はそこまで丁寧に守備をしてくるわけでもない。でもここでやはりというべきか、坂口恭平の家族の哲学が頭をよぎるんです。俺はずっと自分の好きなことだけやりたい故に、息子の遊びの誘いを断らない。そのための環境整備は常に注意を払ってやっている。意訳どころか普段見ているTwitterとか書籍とかから『家族の哲学』に書いてあることを推測しているだけのようでもあり、なんというか彼の全ての本は同じことをいっているという側面もあるのでひとまずこの理解でいきますが、じゃあこの試合を取るためには俺はなにをしなきゃいけなかったんだ?歩いて行けと言ったのか?たしかに雨は意外にも降っていなかったが。ポーズ画面のままいかん間に合わない、なんでこんなときに送迎なんか頼むんだよとモヤモヤイライラしながらこのあと10分を過ごし続けるのか?それが家族か?家族ってそういうものなのか?それに俺の今の答えを示すべく、僕はさっさとギブアップを押したのでしょう。正解は今日の夜ですね。とはいえ、妹が朝僕にどんな言葉を、振る舞いをかけられたのかどのくらい注目していたのかなんて毛ほどもわからないんですが、小さい穴であれ一生涯それは残るものなんだと確信してもいるから、やっぱり大事にしなきゃいけないんだと思います。

さてと、ラストスパート書いて参りますか。一つ前の段落を書きおえたのが11時前だった気がするので、いやもっと早いかな、妹を駅に送り届けてティアキンまでやって10時前だった気がするな。今は20:35。時間も遅いからか訳がわからなくなってきました。ティアキンと妹の送迎と執筆の順序と、さっき僕がティアキンと妹の送迎を済ませて10時前だから,、どうだといいたかったのか。いやティアキンは妹を駅に送ってそのことを文章に書き起こしたあとのことな気もする。時計をはっきり見たのはその時だけ、少なくともそこに乗っていた時刻まで覚えているのは。10時を回るかどうかというところだった。妹を送ったのはその前だっけ、書いたのはその前だっけ、最近の意欲の傾向からするとティアキンが書くことを超えてきそうにはないが、そこはどうにでもなってしまう。昼飯という括りで食べるならせめて11時を過ぎてから食べよう、とその時間を待ち遠しく思っていた記憶もある。30、40分を潰すのに書くことはちょうどいいかずだから、ましてやその時点で一文字も書けていないのであればそこで一気に書いているはずだし。これは「だから書いたのはそのタイミングではない」ことの根拠としてあげたつもりだったのだが、書けば書くほどいやそのタイミングで書いたような気もしてくる。11時は勝手に、待ち望んでいた割にはあっさりと大幅に過ぎていたのを写真のように頭に焼き付いているし、ただなにも気づいたら時間を忘れて取り組んでいた、ということが起きるのは文章を書きている時だけではない、例えば家事なんか決まった量をキリのいいところまでやるから時間主導で作業を区切らないし、そういう意味で心が嫌な方向に流れた時、あるいは嫌なもののそばで発露したのを感じた時、その流れが目の前を通り過ぎていくのを息をひそめて待つ、坂口さんの小説ではないが、いや小説のタイトルだが現実宿りに最適で、時計の上に乗っかっている針をすすめるたいときにピッタリだ。もうほとんど諦めている、なにが先でなにが後か、気にしないようにしていることでもあって、ただそれがどうでもいいことだよと言われると途端に気になり始めて、せっかくだから書きながら整理でもさせてもらうか、となる。整理は多分できていないが、今日も原稿を書き終えることができる。というのは僕が残り文字数をちらちらチェックしながら終わりに向かおうとしているから出てきた言葉だ。近頃、ここ1週間ほどはこういうおわり方をしていないからそろそろいいかなと思っている。今日もかけた。何も進んでいなくても文章は先を歩いている、僕は常に跡をついていっている。考えていることが先か、感じでいることが先か書いているものが先だったりするのか、じゃあ僕はどのへんにいるのか。ボブディランの歌みたいに、常に全部一緒に出てくるということだったりするのか。その連続でしかないとして果てしなくそれは不安定なもので、だからこそ身を任せること、生活の水準を下げること、でも好きなことをやりつづけること、やり続けながら探し続けること、つまり自分の水準を上げ続けること、どこまでが身を任せることでどこからが自分の意思決定なのか、最近あらゆる場面でわからなくなる。なんでもいいわけではないことだけはわかっていて、うちへうちへと揺蕩いながら、外回りだけのパス回しに終始しないように、何度もやり直しながら重要なことを探している。それが俺にとって重要なものなのか、だれにとって重要なものなのか、彼にとっては彼女にとってはどうでもいいことなのか、すべてわからないが全部がわからないわけではなく、ちょっとずつわかるような気もするからまた試すのだろう。境界、前後、全部曖昧にして、何もないのと同じだと言い聞かせて、何もないレイヤーの上に僕がわかりやすいように線を引き、なにかを描き続けようとしているのが今。それがおもしろいものにむかっているのかわかりあうためのものにむかっているのか、多分どちらも違うのだろうと思うのが、そのときだけが今。

無題

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