朝シューで、腰痛に栄養を与えたい 1/14全ツイート

僕からすると、タイトルというのは僕が書く最短の詩であり、(それしか書けないしこの先はあまり適当なことは言えないけど、)それは現代詩だと呼ばれたりするものに性質としては近いのだと思う。だから最果タヒさんの詩を見て、クソ生意気にも「これ俺書けるな」と思ったのだ。

質はともかく、この書き方いいな、俺に(も)できるやつだと直感した。

ここから連勤終わりのツイートタイムが始まったのだとしたら、幸せなことだ。


エモく見せるということはその段階でこれを作品化するということであり、それはレイアウトの問題である。山本浩貴さんたちのいう。たとえば文末の句点をなくしてみよう、それで人に見せられる程度にはエモくなる。そこから考えよう
句点を打たないということは文末にとどまらず、今書かれたものに空気を含ませるということである。

ツイートタイム終了。千葉さんの、「男の照れ隠し(おぼえがき)」についてのツイートを何度でも思い返したい。

「昔のオタクっぽい言葉遊び(遊びだけど、やむにやまれずやってしまうもの)、「拙者、何々でござる」みたいなのが、照れ隠し言語の最たるもの。たとえばああいうものに、「文体」と言われるものの本質がある。

散文で自由に書くということの難しさ。フォーマットがない自分自身の散文。しかも具体的なことを書く。照れ隠しをしない。古代の人が何を書くにも韻文になってしまったのは、まず原初に照れ隠しがあったからだと思う。散文でも特定の業種の文体はほぼ韻文だと言える。ただの散文、ということ。」

「ベケットは照れ隠しを削りに削ろうとした。物語や因果性すらもが照れ隠しであると見切った。」

「文体がない人になる。というのがドゥルーズにあったけど、あれは照れ隠しをやめるってことだな。そうか。」

「なんというか、「お前の照れ隠しに他人を巻き込むな」と言いたくなることがしばしばある。」


もうリツイートするのが申し訳なくなるくらい、千葉雅也さんのツイートを「照れ隠し」で絞り込むと面白いものばかり出てくるが、案外自分でこっそりメモをとるとか、原稿に引用しまくるとか、そういう方には意志が向かないから、こういうツイートでみんなに知らせる。ことになっている。

ツイートタイムが終わると、少しして弁解タイムが始まりそうになるときがある(頭の中ではもう始まっていたから何かのきっかけで)が、消したい!と強く思わない限りは消さなくていい。


でもこの一連の照れ隠しdisは、照れ隠しがダメだと言ってるんじゃないんだよな。ここからは勘違いだからノートで書くとして。


静かな感じで、ノーモーションのネタツイ、ウケなくてもウケてもそこにあっていいとすぐに分かるような存在として強いやつ、を作れるようになるために、僕は色々やっている。この願望自体、もとが照れ隠しだといえばそうだが照れ隠しが問題なのではないとすれば。今、するとそれが邪魔なだけで。

このツイートタイムが最近はなにより嬉しい。ノンスタ石田さんが、あちこちオードリーで「俺が心の底から笑えるのは子どもの前でだけ(覚え書き)」と言っていたが、感覚としては近いのかもしれない。安心してのめりこめるというか、依存のさじ加減がこれ以上なくわかりやすい。し過ぎてもまあいいのだし

これ、「馬と人」さっさと終わらせて100回分まとめて本にしようとしてたけど、無理だな。やむにやまれぬ、というのもあるしと進めようとして、「止むに止まれぬ」?やめようとしているのかと気になる。ググって「そうするよりほかない」のほうも思い出す、しかし僕はやめたいのだ。

馬と人をやめるとはどういうことか?タイトルを変えるだけか。内容としてはそうだ。書くことを?やめてみようとすると、最近は丸2日で書く気力と書く「物」が補充される。noteでは書けないが、この形式で書いても仕方がないということで、ツイートで、人にサクッと見てもらえるなら書ける。
「笠井康平さんがいつのまにかカクヨムに〜」ということを書いたツイートを、笠井さんのリツイートでみた。カクヨムをのぞいてみたが、はてなブログより性に合うかもしれない。noteと比べてどうか分からない。しかし、ツリーとして書くのは連ツイより、連ツイを終えた後ならば気楽に書ける。
要するにぼくはもっともヤバい見え方で見えるように、そのことを書きたいのだ。でなければ、そもそも書いていられないだろうから、書き出せない。


哲学者・千葉雅也の東大講義ダイジェスト#2「千葉雅也氏の“変身”」 youtu.be/mBZVB1YDojU?si… @YouTubeより
このシリーズいまさら見つけて、むっちゃおもろいです。


TVアニメ『アオのハコ』第2クールノンクレジットED │ TOMOO「コントラスト」 │ Blue Box Ending  2 youtu.be/pAjs2GWEZvI?si… @YouTubeより


海に眠るダイヤモンドがみたいんだけど、自分のペースでみようとしたら有料でみるしかないわけだが、これはじゃあ「ラグ」をお金で買っているのか、僕が今この状態でドラマをみるために、お金を払う。


「逃避で描いた電柱が上手くできたので見てくれ。
(ネームをやらなければ)(使うあてのない絵です)」 おかざき真里さんのツイート


カクヨムを入れてみた。コロンビアのアプリをこの前アウトレットに行った時に入れたので、青が続く感じに。そして僕はマガポケで、暇な時間ブルーロックを読んでいる。


今日はツイートしかできないな。noteや人の見えないところで書くと、馬と人にしたくなってしまうから防衛機制みたいなものかもしれない。リツイートを交えていけば、よりリズミカルに多く書ける。迷惑がられることが比較的気にならない。全部の量でいうと、増えているのだが。

練習の賜物でもあるし、ビギナーだし若者だからなのだが、今こんなにTwitterみたいにここを使ってるやつもいない。どこまでも飛んでいけそうな気がするが、1年後にいる場所ですら想像がつかない。ここに場所があるのならいる、くらいしか正しいことが言えないのが意外だ。(別にTwitterっぽくないか
こういう風に100%をぶつけてこの有様だから本気で書ける。有様というのはありようと読んであげたい。が、このありさまで全力で、だから舐められ、20(0)年後に貴重な文献になっていようと、書くときには気ままでいられる。仮定の話だが、自分の中で忽然とした(そんな言い方なかった)リアリティがある。


以上。2650字程度、URLとかひとの言葉込みだけど。すげえ書いたな。それに千葉さんからついにリツイートをもらって嬉しかった。
ここの、千葉さんにリツイートをもらうことの嬉しさが難しいのだが、なので今後続けて考えていくことになると思う。ピンフさんはこの前の日記で、保坂和志の小説的思考塾に行く前の日だったかな、だから「かまし」の意味もあるだろうが、保坂和志は権威と僕の中でなってしまったので、どうぞ読んでください!というふうに僕の小説を渡すわけにはいかない。というようなことをマジで覚え書きで申し訳ないが書いていて、そこのことをまさにこの前Twitterスペースでも少しだけ話して、思いのほか僕が深められなくて悔しかったところで、そう、すり寄るように、僕が名を馳せるために、いやそれよりは、彼に推しに僕が「認知」されるようにやるとまあダメだよね、というか、今後のことを考えると無理だよねそれだと、というところの話がまずあって、僕の感覚だとそこで話が終わってしまった、という感じなのだが、そうでもないのかもしれない。「権威」とはいうがありがたすぎるヨハネスなのであり、いやそんな次元はとっくに通り過ぎている、時間も経っている、から生じる課題への打開策がクソジジイ!であり、そこで、逆張り的に、いや逆にもらいにもいってみる、見てもらいに行っちゃうことで起こることを見てみる、的な突発性の興味もそこの段階であり、何往復も何周もそこでしたのち、もちろん私たちはその最中にいる、まだ、とかじゃないもうヨハネスと俺たちはずっとそうだ、くるしいとか言ってる場合じゃないのかもしれない山下澄人はこれを読むと悩みが消えます、もしくは増えます、とか僕からしたら渾身の、自身の人生相談本を紹介していたし、本の中でもそんなことを言っていた、あのね、悩みってのは増えてく一方ですよと、心底安心した、そういうのもあるんや安心って。それで、まだこの話題は深めたいのでどうにでもなりたくない、俺は今どう思って千葉さんだったり、あとは山本浩貴さんとかに、僕のツイートを見てもらいたい、というより案外具体的に、いいねしてもらえるかも?とTwitterをいつもより頻繁に開いたりしているのかということを考えている。でもそのことをまずは言いたかったのかもしれない。そこのところが僕にとっては、読み手としての僕が言及が足りないな、恥ずかしいことだと思って表面をなぞることしかされてないな、思ったから大事なことだ。そう書いていて、どこかの文豪は書いていて、それについて勇気づけられたとかTwitterのおすすめ欄に流れてくるようなツイートを想像して、簡単に想像できてしまうしあるのだろうなとも思ったが、まああんまり僕がドラマチックにそれと出会うことはないだろうなと思ってスルーした。もう少しで4000字に達し、無事というべきか今日の原稿も書き上がってしまう。馬と人にするつもりはなかった、ツイートしかできなかったからツイートしていた、ツイートじゃないのがいいなと思った時間もあった。
ざっくり言えば僕は「権威」という言葉について考えようという気はなく、それは死やその他についてもそうで、おそらくそれは、その言葉たちの権威性に関わるのだろうから、とりあえず周りのことを考えるのが早くてウマいかな、と思って、安くはないのだが多分、そのやり方でやっている。ひとまずは、ほんとに書くためのひとまずでしかないが、安心して書けるということで。深まらん。深めたいのだが。ツイートのとき感じられていた音はもう感じられない。というかTwitterに戻ったらまた感じられるのかも、とにかく、視聴者と有名人、として見なければ、書きたい俺と、書きたい彼、彼に僕は救われている。と見れば、普通に見てもらいたい!とも思えそうだと思ったのか、僕はそうも思っていたいようで、俺にとっては若者の青さ、恩人に対する立ち方、相手をすごいものと崇めすぎずガシガシ使う、ということをするための正解がそこのダブルスタンダードの実践に詰まっていて、偉い人を偉いとそのまま視聴者的にみるのこそ相手を物として見ていて、それこそが失礼で、偉い人というか書いてる人に僕が書かされたりして僕が書いている、のであれば、ありがとうございます!(でもそこから俺が俺のツイートを見てもらいたいと彼らに思うってのには僕の中でないと直結しない、そこの欲望はもう僕の根っこにあるもの、すでに実践できるよう尽力するしかない状態、だから淡々と、ほどよく知らないふりして、しかし自分のタイミングで彼らの名前が出てきつつ、俺の直近の興味について話すには、と視点を転がしていくことになる。だから)となれる。(とか言える。)俺の好みの問題かあ。でもこれについて書きまくることは大変有意義なことだと思うなあ。知らんけど書いてこう。お名前出した皆さん、今回も失礼いたしました、ありがとうございます(馬と人 #36

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