山内
山内が、YouTubeで
「小さな巨人戦の映画化も決まったし、『チームの地力』をまた聞く。林ゆうきさん作曲。これが「君こそはいつも万全で、チャンスの最前列に居なさい」のシーンで流れたら、ボロ泣く。
「経験不足 準備不足 全部ひっくるめて俺達の全力」だからな
ハイキューは最終盤に向けてずっと右肩上がりで面白くなっていき続ける漫画なので、どうか鴎台、ブラジル編、まで読んでみてください。気が向いたらでいいから、ほんと全員に読んでほしい。そんで俺と夜どおし喋ろう。
というかやっぱり、小、中学生で出会って、アニメもやっていて、ミックスで味わって、飽きたのでもないけど読まなくなってその間もやっていて、大学生のときにもう終わると聞いてジャンプを買い始めて、クソ面白くて、という人生とのひもづき感が美しすぎて、フィルターかかってるどころじゃないかも。
合宿編とか、現在の感覚からするとこれから新しく読む本でそれがあって、限られた時間で、かったるくて読んでられないかもしれない。中学生だからあの会話劇がみているだけでの喜びになるところまで、読むものもジャンプだけだったし、ゆっくり馴染ませられた。あれが100%の喜びだったときがあっての今
まあ影山が一番かっこいいよ。
「100%いかした会話」というのがあって、僕だったらそれは小学校のとき読んだ漫画の会話、それがアニメなってこんなまた楽しめるんか、友達が送りつけてきた藤岡拓太郎の漫画、高校卒業してようやく観始めた東海オンエアの動画の雰囲気、23歳過ぎて、「お笑い」「エンタメ」「文学」「芸術」「批評」
「100%いかした会話」はただ浴びているだけでよく、というか浴びることしかできない。その浴びているだけでいい期間がどんどん短くなってきて、それが苦しいと感じ、自分でもなにか文を作ったりし始める。それは確かに疲れるというか面倒臭いし、本当になんでそんなことしなきゃいけないのか分からない
というのはきっと今に至るまでの育ち方、遊び方、がそう思わせている。だがそれが悪いわけではない。ただ、圧倒的にいかしているなといま100%に近い形で思っている人たちは幼少期から自分でつくって遊ぶ、ところから作品をみる、でやってきた人たちで、それを羨ましく思う。という苦しみ方をここ数年。
この苦しみから逃げない、苦しみたいわけではない。「ないほうがいい」わけでもなく。克服というか、その時間のなかに俺の絶対的な100%、200%および10000%がいる、とわかっているがために、動けずにいる。ここに、どんな形であれとどまりつづけないと、生きることができない。ここにタラレバはない。
だから苦しいのか苦しくないのかわからない。猛烈に寂しいといえばそうだが、もうそれは伝えつつ伝えつつで自分で色々やっていくしかない、というのはそういえば、圧倒的な絶望だ。その時間こそが楽しいんだよ、宝物で人生のダイゴミなんだよ、とか口が裂けても言えそうにない絶対その今から考えたい。
いま、さっきの続きで呪術廻戦のサントラが流れてきている(『不義遊戯』)。呪術廻戦が中学生の時に会ったら特にアニメに本当にのめり込んでいただろうなと想像できる一方で、作品性が利口すぎる感じもあり、ガキは心底からのポエムみたいな生来の偏りで出来た漫画だからのめりこめるのかな、など。
漫画って表現自体が「利口」なんだろうけど(読み手が面白いと感じてなんぼ、スッと面白い方の感へ流れていけてなんぼ。潜在するファンダムにいい感じの雰囲気流すように書いてなんぼ)、今考えても仕方ない。僕が中学生の時はもうちょい偏りがかっこよさの空気だったから、「利口」もそっち向いていた
「偏りがかっこよさ」はいいすぎだな。偏りというか、ナルトの変な擬音とか変な言い回しとか、このへんのセンス怪しいな、みたいなところを真っ直ぐ馬鹿にして、それが「問題」みたいに語られてなかった。
ツイートタイム終了。もう少し、どうにでもなれ!と書いても大丈夫。」
って言ってました。なるほどと思って心のノートにメモっておいたのですが、なにが名言だったと思っていたんだっけと忘れてしまい、今朝起きたら、いろいろ思いついてツイートできました。山内はなんて言っていたんだっけ。そこから、まずそれを端的にメモって、あとから広げるなりまずはその言葉使わずに書き出していくなり、という方式を試してみようと思って。
ただそうするかは迷っていて、まずやってみればいいんだけど俺に合うのか?それをして(まだ)俺なのか?みたいな感覚もとっておきたくて、そのあいだのやり方を考えていたら、バイトの休憩が終わってしまったので、まあ書くかと諦めて山内といくつかの要素を書き留めようとしたら、あ、どるどる蝋がとけて形を変えてもともとの形を隠してしまうように見えなくなっていくやつだ、抗うか、抗うほどみえなくなっていくのはわかっているが時間にまかせても忘れていくだけ、ああ、山内。タイトルも山内。とメモ。ここに今朝のツイートをを代入。そう、代入。
ツイート集ではもうしゃらくさくてできないが、まずこれで。どうか。さすがにまずいか。山内言ってないし。フィクション。で誤魔化しが効く時代って、今はどうなんだっけ。いまもそういうとこあるんだっけ。もう書き方一つで、あるといえばあるしないといえばない、大・工夫時代だからな。どうしよう。代入。代入ならひとまず、ということが可能だ。だから代入を選んだのではなく、せっかく「朝から」「ぎょーさん」書いたし、まとめて見栄えをみてみるか、その方があとみんな全文読んでくれるし、と給食の残りごはんでおにぎりを作る先生とはちょっと違うが態度としてはそんなイメージのことをやってみようと思った。
結局、このまま10枚まで書いちゃった方が書いてる方としては面白いというか、しっくりくる、人に見せるものとして(人に見せないなら書けない人間、談)というのが悩みの種のようでもあり、再現性にあふれた便利すぎる、俺だってそれで書けて見せられるならそうするよ、と言ってもらえそうな俺に合致したやり方でもある。もともとオーダーメイドみたいな形をしていた、というかやはり10枚の間でいくらでも形は自分好みにできるというか、自分の部屋を作る感じではない、ちょっと言い方アレなんですけどオ○ホを魔改造する感覚(したことはない)ともちょっと違うんですけどイメージ浮かんだので、部屋よりはこちらが近い。
お腹が空いたので飯を食う。昨日のもつ鍋が残っていて、ごちそうがすぎるが朝飯に食うのはやめといた。英断だったようだ。
500Wで温めた方が、600Wよりなんでも美味いです。600Wは仕上げの追加加熱用です。追加加熱…追加加熱…もつ鍋。
「いい年こいて、おもしろがることで楽しんでんじゃねえ、なにがおもしろいかで語ろうで。」という表現を思いつきました。
書き上げるか否か。書き上げるフェーズに入る、と決めたあとの文が、あとから読んで面白くない部分なのかと思いきや、そこに至るまでがぱっとしなかったりする。内容が暗かろうが深かろうが浅かろうが、ぱっとした物語を僕は求めているのだろう、なんだかぱっとしないなあ、を善としてやっていく人生の段階には、一区切りついたのだろう。だが、要約はしない。
この前マキさん店長のバーに行って、酔っ払って、ほら今言ったこと30秒でまとめて、と俺の長い身の上話を何人かに語ったあとにふられて、つっかかっていってもいいようなフリだとその瞬間にも思ったが、いや、やってみようとほぼノータイムでやってみた自分が意外だった、その瞬間にも、それをやっている最中にも、今これを書いているときにも意外なことである。僕はゆっくり、30秒ですべてを語り尽くそうとせず、このスピードにすべてがこもるように、態度で会話を超克しよう、みたいな態度で、(アルセウスにでもなったような気分で、)ゆっくりと、ざっくりとした言葉をあえてつかって話し始めた。でも、ひとつだけ言いたかった「逆のこと」があるとすれば、「マキさん俺、世界一になりたいんすよ。俺、世界一になろう、世界一のものしか作れなくなろう、将来的に、と思ったら、要約なんてしてる場合じゃないんですよ。」と言えばよかった。
俺、世界一になりたいんですよ。
俺、世界一になろう、世界一のものしか作れなくなろう、将来的に、と思ったら、要約なんてしてる場合じゃないんです。
要約がクソだと思考停止みたいにして考えている一方で、千葉雅也さんならそれを大事にするし、それはプロの研究者、「プロの書き手」としての態度はこうだ、という話かもしれないけど、それでも素人の生活でみても、身につまされるところはありますもんね。それが勘違いだ、お前が気にしてもしょうがないからむしろ反対だったりにいくべきだ、と言われたらそれまででもありますけど、好きなんだからしょうがない、みたいな問題でもあるんです。
でもやっぱり俺の才能はなにかといわれたら、
才能って「次の世代というか僕と繋がりを持つことになる過去の人への報い方」、とか「子孫への秘伝の特製熟成ハウツー本」、とほぼ同義だと思うんですけど、
なんでもかんでも思い、感じたことを、リアルタイムでもないのにリアルタイムで書いてるみたいにこだわって、馬鹿みたいにひとりでも書く
能力だと思ってるんですね。
それが「書くだけ」なのか、というところに迷いや苦しみはあれど、
それが人に伝わらない、伝わりづらい宿命を背負った(っぽい)書き方であるというところには、もはやなんの苦しみも、悩みもないんです。
私は人に自分の書いたものを読んでもらいたいのではなく、思いついたから人にもみてもらわないともったいないというか絶対受けるのに、こんなんぜったい残した方がええですやん、という感じなんですね。小学生とかから一貫してそうなのかな。カッコつけなきゃ、もてなきゃ、といっても、与太話の時間にはボロが出て、あんたの話つまんないと何度言われたことか。
いえ、何度も反芻しているのは僕です。
だから、これもああ言ってもよかったな、という話。しかし言えばよかったな。そういったほうが深まったけど、俺の人生の深みの話だから、会が盛り上がったかと言われれば、その真逆だろう。でもそれを言って、ダメになるってことはないみたいなんです。こういう順番で喋ると、当たり前の論理みたいですが、僕の思っていることを、ゆっくり、伝えるというか、そのまんま優先で、前の人には伝えようとする、みたいな喋り方って、それ単体でみると、どうみても良くは見えないんです。でも、言ったら、あれ言っといてよかったな、ってなるらしいんです。
山下澄人が言うてました。