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どうすんねん、明日もあんねんぞ!

おはようございます!7:09。今日書くのは日記になると思う。けど後から小説になるかもしれないし、部分的に生活の実況にもなると思う。小説を100本書きたいというのが当面の目標なのだが、まあ日記を書きたいときはしょうがないよねってことで少しでも小説になった部分があれば、タイトルに添えておけばいい。自由に自由に。

昨日は大学の友人と運営している交換ノートを僕が更新した。飯でも漫画でもドラマでも、すでに観ているものでも観ていないものでも、一応分類はしたがもともとはどんな条件だろうが僕一人じゃ抱えきれない喜びを共有したい、というか一方的に伝えるでもいい、どっちでもいいと思わせてくれるようなものたちを書き殴らせてもらった。バイトもフルタイムでやってきたし帰りは母が駅前に停めた車を乗って帰ってこなければならないのを忘れていて一度夕飯を食ってからもう一度駅に向かったり、洗濯物は母が干してくれて助かったがベッドに横たわった22時の時点で相当疲れていたし、それもあって、疲労の具合に重きを置いて交換ノートの原稿の出来をすげえいいもん書いたな、力作だな、今後しばらくこれを超えられるだろうか、と思い寝る前に見返したらぼちぼちだった。なんでもかんでも見たら熱い気持ちになって面白く感じるわけじゃないんだ、とかえって安心もしたが、案外たいしたことなくて拍子抜けもして、がっかりもした。でも、ただそれだけだった。じゃあ明日からまた練習しないと、というか、だから毎日練習しないといけないのね、と思った。僕はすぐ「型からはいる」ならぬ「型から変えたがる」が、どちらにせよ型から入っていて、どちらにせよ上手くはいかない。普通に書いたらパッと見すごい圧を感じてしまうくらいの量を書いてしまう。カッコいいからこれを僕の特質と思いたくなるときが頻繁にあるが、たぶんいちばん体を楽にして書いてください、と言われたらみんなそうなんじゃないかと思う。案外そうでもないのかな。まあどっちの人もいるんだろうな。数日前、バイト先でコーヒー豆を販売している棚に、ひとつだけ値札や原産国のポップが前に置かれていない豆があった。おそらく店長とかに伝えたら1週間後くらいに届くんだと思うが、それまでひとつだけ値札が出ていないのもな、と思って勝手にポップを作ることにした。以前アイスでもそういうことがあって、そちらは店長に頼まれてふたつ作った。額縁を柄で描くようにして、さらにワンポイント、たとえばジャスミン味だったらアラジンの魔法のランプみたいな絵をシンプルな線で描いて、最後に荒川弘が言っていた「ベタが入ると画面が締まる」というエドワードの顔面についての発言を転用して、うまいことおいしげる葉っぱを真っ黒で描いてポップを締めることができた。これがなかなか好評で、ウーバーイーツの袋に描く簡単な絵のおかげもあって「そこそこ描けるやつ」みたいに扱ってもらえるようになった。そして二つめのアイス、こちらは黒糖きなこ味だったのでドロドロした感じで枠を作ろうとまず決めた。そのあと小学生のとき編み出した、縦横の線を互い違いに連ねると畳にみえるという技術を使ってさらに外側に額縁を作ろうとしたのだが、ペンが太すぎて上手くいかなかった。マッキー極細が欲しい。仕上げのワンポイントとしてシーサーを下に描いて、少し画面が寂しかったので背景になんくるないさ、と書いておいた。こちらは色々盛り込みすぎて、ちょっと見づらかった。頂上戦争編のワンピースの作画みたいだといったらもう褒めてるか。時間が経って数日前、なんとなく簡易ポップ作成係の自覚を誰に求められるわけでもなく抱き始めている僕は、意気揚々とカフェの公式サイトを開く。コロンビア、苦み酸味と口当たりの軽やかさ、2つの要素が7段階くらいのパラメーターとして載っている。隣に置いてある本物のポップも参考にして、さっそく真ん中の少し上に、まっすぐな横線を引くところから始めた。上手く引けなかった。あ、上手くいかないなこれ、と思った。浅煎り、と書いた下に四角い枠を設けて、LIGHT ROASTと書く。まっすぐかけない。こりゃまずい。しかしきっと上手くいく、そう自分に声をかけることが、あるいは他者に声をかけることが経済である。しかしすでに窮屈だ。そもそももっとどうなってもいい紙に書くべきだったんだ。こんな2枚しかない、今は使っていない豆のポップ裏に描いたらそりゃ緊張しちゃうよ。ペンふてえし。と自己否定が始まったので、やめた。裏にマジックでいくらか描いても表には影響がなさそうだったから、誰に伝える必要もない。

型におさめないって、なんだ。おさめないとも意識しちゃいけないってことでしょ。考えた時点でダメになっちゃうようなものでもあって、ならばどっかで考えとかなきゃいけないってことになる。えいやっえいやっだけではなにも深まっていかないし、当然新しいものは生まれない、そして退屈になる。で、鬱になると死にたいと感じる。うーん。型。パッケージ。パッケージってのは、好きに盛り盛りしてったものをその形に合わせてラッピングするってことなのかな。千葉さんや坂口さんはかなり好意的にみていた。僕にはまだわからない、ようで一部わかるような気もするし、はなから全部わかってるような気もしてくる。

はいおつ。はいおつから始まる昼休みも板についてきた。板についてきたという言葉は好きだ。汎用的だが使い潰されている感じはない。僕はある言葉が流行りで消費されてしょうもない言葉になっていく様を眺めて心を痛めるのだろうか、そういうわけでもないのだろうか。いつも通り、昼食をとって1時間の休憩のうち、後ろの30分を執筆に使う。場所はもちろん店舗の前のマンションの、入り口出たところのなんか骨組みしかないようなスペースにベンチが4.4で8つ点在しているなかの、マンション入り口から見て上段右から二番目。大体いつもこの列のどこか、空気の冷たさによって日向に寄ったり何も気にせず近いところに座ったり、しかし日向にあたりにでもいかない限りはあまり通路側には座らない。ほんの2ヶ月ほど前までは、こうやって座っている時一生懸命目にうつる景色のことを書いていた。意識的に。僕の存在はここから消さなくてはならない、そうしなければ良い文章、というかヤバい文章にはなりえないと。今は少しだけ違う。風に揺れてパラパラコマ撮りみたいに光あの葉っぱを、必ずしも書き留めておかなければいけないとは思わない。すべて景色だから。寒い、寒いから僕は日向へ近づこうとする、室内に戻ろうとしてやめる、温かい言葉はこの寒気までは遮ってくれない、それは悲しいことでもなんでもなくて、ただ体を覆ってあげればいい、対処の仕方が違うというだけだ。これはすべて見えるものであって、見えたものを文字に書くか、言葉にするか、頭の中に何にもならず、ただなんとなくの温度と色を持って滞留している、これを僕の知っているあの感情と結びつける、すると僕がそう思っていることになる、そういうことになる。鳥羽和久さんは自分の考えなんてものはないんじゃないか、ないんだよとまで言っていた気がする。言葉にして初めて、あなたはこう思っていたんだと気づくんだよと。どちらが先かという問題は置いておいて、自分の考えに自信が持てない、つまり自分はこう考えている、ということと自信、自分の存在を確かめさせるなにか、たとえば自己肯定感と呼ばれるような心の反応、これを結びつけるのは筋違いなんだよと、筋とはなんの筋かといわれたら、なんの筋だろう。ルートとか、転じて根とか言い換えたほうがイメージしやすいのかもしれない。ふたつは交わらないところにいる、なんとか組み合わせてこういう論理です、と想像できるのが人間のすごいところでもあるけど、というか便利なところだけど、これとこれは噛み合わせが悪いって組み合わせは多分あるんだろう。たとえば考えと、自信とか。

寒くなってきた。肌寒いといっていいような気温ではないようにも思えるが、なんせペラいシャツ一枚で外に出てきてしまったし、四方日陰に取り囲まれている。身も心も寒い。おまけに店内は日光の照り返しを受けてとにかく暑かったから、スタッフドリンクは冷たいのをもらってしまった。あれがあったかかったら今僕の感じ方が変わったかと問われると怪しいが、若干の肌寒さを覚えるとき、人はそばに置いてある冷たいドリンクを差し置いて思考することなどできない。あるいは書くことによって、あえて自分の考えだとされているもやもや、意識のからまりを無視して、というか言葉の意味には注目せず、情報が脳を通過するようなルートを介さないイメージで、反射的に手を動かしているのだとしても、やっぱり気になる。寒いときに持っている冷たいドリンク。今日のタイトルはこれだな。とくにどこの核心を担っているわけでもない、しかしこいつは俺にとって重要だ。千葉雅也さんの、意味のある無意味を先日図書館で借りてきて、うわこれ難しいやつだ、と勉強の哲学との見ための違いを感じ取りつつも帰路で読んだあのとき、意味のない無意味?意味のあるじゃないんだ、とまるで手のひらで踊らされていることを最初からわかっていながら避けられないような迷いに晒されたあと、理解しきれない説明がなされる。意味がない無意味はもちろん同語反復、トートロジーである。トートロジーって悪いことだけに使う言葉じゃないんだ。そういうのもありなんだ。正直なところ、まだ本は読み進められていない。でも新しい面白さにまたひとつ気がついた、こういうのもありなんだ、と。郡司ペギオ幸男さんの、創造性はどこからくるかで私淑という言葉を知った。坂口さんに電話をかけるほどの死にたい状況ではない、俺の作ったものを見て欲しい、そんな欲ばっかりで。でも千葉さんは欲望をネガティブに捉えないことについて、今度は語っていたりする。どうすんねん、じゃあどうすんねん、に答えられるのは結局僕だけだ。人の真似なんかするなと坂口さんは言うが、最後は真似のしようがない、ということを優しく早いうちから教えてくれているのかもしれない。なんにせよ、真似なんかするな、人の言うことなんかひとつも聞くな、これは躁鬱の治療法でもありつつ、僕個人に対する痛烈なメッセージでもある。どうすんねん、どうすんねん。明日もあんねんぞ。死ななければ、明後日もあんねんぞ。でも、それしかない。

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