別れを告げない/オーバーヒート を読む
別れを告げない、というかハン•ガンさんやばいぞ。と言いたくなったが読めているのにわざわざ離れたくはないし、そんな、これ面白いです!を人に見える言葉にすることが、目の前の名文を読むことより大事なのか、そうなりたいのかわからないが少なくともそうでないほうがカッコいいような気がする、気がしてならないがいよいよ、せめて特定の誰々に対してではなく、しかし幾人の顔を思い浮かべながら、これすごいぞ!読んだほうがいいとは俺はあんまり言わないんです、なんか俺の中でもう、俺に対して送ってほしい感想はあらかた決まっていて、そうでなくてガクッとなるのがあれだから、それをやるのだとしたら直接会ってやるべきなのかあるいは会うのは重たいから長電話、俺にはそういう文化がないから、ほな、独りごつしかないか、みたいな。そんな感じで、なんで俺は生の会話ができないかなー、そういうように育ったかなあと、悔いてみる。
比喩がちょうどいい。千葉さんや村上春樹、いや春樹に感じた比喩のすごさを感じている。ここでいうすごさというのは、言葉をあらん限りで意味によってパンパンにふくらそうという試みの中では生まれない。千葉さんはTwitterかどこかで、パッと浮かんだものだけを、(始めからこの場所には比喩をあてようというのではなく?)たぶん僕の解釈だと、というか適切に言葉にできるか不安なだけで、わかってはいるつもり、なんというか比喩、つまりこれがこれみたいだなと、これなんかに例えられないかな?と問うて浮かんだ答えではなく、あ、これとこれ、というかこれ見たらこれ見えた、これこのまま書く、ということでしか、比喩を使わないのが基本なのだという。比喩というかある種の空目だとでも言えるのかな、これが伝わるかどうか、上手いかどうかなんてことは当然考える必要のないもの。
たしか、団地の狭い階段を、ひと一人分しか入らない幅のエスカレーターで例えたものに対して、これじゃ、階段をエスカレーターって、これじゃ例えになってないじゃないか、という小説の感想があったのに対して、引用リツイートと、それに基づくいくつかのツイートで、このことについては喋っていた。なるほど、と心のノートにメモをとって、うまく言えた、言えなかった、と僕が僕の書いたものに対して思うときの違いはなんなのか、ということの答えを一つまた先にもらったのだった。あそこから僕の書き方は変わったと思う。これから、糸井重里さんとの対談がイトイ新聞にてあがるらしいが、これがまた読点の使い方の話のようで、めちゃくちゃ楽しみ。もう、僕も千葉さんと、僕もってなんだ、千葉さんと言ったらこれという感じ。山内朋樹さんだったかな、いや東畑開人さんだったかな、センスの哲学評で改行の技術を大変に褒めてらっしゃって、そのときも僕は、今はわからん、俺がそれをすごいと思ってるのかはわからないけど、きっと今、僕が千葉さんの本を読みやすいと思ってることの理由ってひとつはこれなんだろうな、と確信的に思った。でもそれもそうだけど、そのときからかはわからないけど、千葉さんのすごみがよく出ているのは、僕は彼の読点さばきだと思い始めた。なんというか身のこなしというか、身一つであつかえるものって文章においてはなんなんだろう、呼吸法とか重心のとりかたとか、それをどう表現しよう、と思うまでもなくそれが文章を書くことにおいて出ちゃうことがあるのだとすれば、それは何になんだろう、と言葉にならないなりにきっとずっと考えていて、ひとつ、絶対読点は重要だと思った。カッコとか、ーーみたいなやつとか、!とか?とか、この感嘆符についてもどこかで千葉さんはこれもすげえよと言っていた方がいたが、ようするに、読点ですらないのかもしれないけどね、この最低限、脈々と受け継がれてきているこの記号だけで、それ書けるけどねみたいなスマートさ、というより上品さ、フラットとはなんなのか、というのを考えさせられる、いや考えさせない、考えさせないくらいのプレーンな感じ。入ってきてしまうプレーン。
ともう言葉たちの関係性がめちゃくちゃになってきてしまったが、ちょっと崩壊してきてるかなくらいところでやめる。崩壊は、させるにはさせる。あとそうだ、読点といったら、関西弁の人。すっごい点とか丸を使う気がする。あれをみてかっこいいなと思って、よく使うようになったのもある。たとえば10万トンアローントコさんという京都の古本とレコード屋さんの店主さんはTwitterをやっているが、彼の句読点さばきも美しい。熟練を感じさせる。なんやねん、それ。みたいな。ここでひと呼吸。というのでもなく、口でしゃべってるリズムって、案外書いたらこうやでみたいなことを勝手に彼から教わった気がする。
ハン•ガンの別れを告げない、千葉雅也のオーバーヒート、やばいです。どっしりしている。揺らぎを書くのが小説だけど、揺れに揺れて、もうその、つられた鉄球みたいなものの可動域がわかっているような、そもそもあれだけの量の自分のことを書いて、というのも千葉さんの私小説の読み方としては間違ってるのかもだけど、あれだけの量の自分のことを書いて、どっしりしていると感じられることの凄さ。