馬と人 #24
活力湧いてきた!これをつかまえる!ひらがなに開くかそのままか、というのは僕には大事。一度書き直すことがほとんど、でも一発書き直したらもう、そのまんまか元に戻すかどっちかで、第三択の介入を許さない。それでもしっくりこない時はたまにあり、そういうときはほんとに覚悟をきめて、台無しになってもいい!と思って、大幅に言い回しを書き直す。すると、うまくいくこともけっこう多い。かといって心労がかかりすぎるし、滅多にあることでもない。基本はそのまんま、あるいは一発目の直し(の原状回復)にとどめる。
新宿ベルクに寄ってきた。といっても本とひとくちシュトーレンを買っただけで、お店でコーヒーなんかをいただいたわけではない。満足。新宿にせっかくきたので紀伊國屋書店にも寄り、またも福尾匠さんのフェアを眺める。今いちばん気になるのは、「ポストメディウム時代の芸術」。これが、欲しいというよりまさかの横書きから文字のおさまるスペースの量からなにから、中身の見た目がお気に入りすぎて、僕が本を作るならぜったいこの水声社のポストメディウム時代の芸術、のレイアウトを丸パクリしたい。日記をこの横書きでおさめたらすごくおもしろそうだし、読者、書く者としての読者両面からみて、僕はこのレイアウトが良いと思う。こういう本こそもっておく、いつでも質感を確かめられるように手元に置いておくべく身銭を切って買うべきなのかもしれないが、ちょっと普通に高い。2750円で、僕はもう12月の出費を、あらかじめ決まった日程をのぞいてほぼゼロにおさえにかかっている。なんとなくこのからゼロ封を始めたら、これだけ浪費をしてきたのにもかかわらず4万円の貯金もギリ実現できそうな気がする。だが不思議なことに、ベルクの前の廊下に売っている、「食の職 ベルク」は今買うべきだと思った。
むしろ今買わないとそれこそが浪費になる、機会とかいう漠然としたもののことよりは、その間に流れる時間のことを考えて、もったいないなと思った。
赤羽で今年もお花を買った。ブーケではなく、ほんと、仏花だったりお正月だったりのお花を買うような人の行くお花屋さんだ。でも飾って可愛いお花もある。そして小山生花店のお花は瑞々しく、香りもずいぶんもち、花粉症の僕でもうっとならない、つまり瑞々し意ということなのだと思うが、そういういい香りがする。今日も店構えの凛々しいお店だった。また行こう。お花を贈るたびに通いたい。
あと、気に入ったお店の方にくらいは声をかけられるようになったら良いな。やればできる、ことでもあるんだろうけど無理しても仕方ねえ。昨日のCYでそう思った。今日のお花屋さんではちょっと喋れた。
フラワーアレンジメント完了。なんかお花単体の写真を撮る気にならないので写真は差し控えるが、お花屋さんで買ったはいいが長く切ってもらいすぎたのと、あまりにおうち用の感じで包んでしまって、このままハイ、とはあけづらかったので、ここは一念発起し、小学生3年生ごろお母さんに着いて行って以来のフラワーアレンジメントに挑戦することにした。といっても、大きめの焼酎瓶くらいの花瓶に合うよう花の長さを調節し、うまいことわしゃわしゃさせ、それを花瓶にあらかじめさし、プレゼントの紙袋の後ろかどこかに飾る。そのためのお花を自分で作ろうここからは。
そうしてできたお花がこちら。悪くない。というか良いんじゃないの。物静かなクリスマスって感じで。写したいものを中心に、とった後の写真を拡大したりして、その大きさを逃したくないのでそのままスクリーンショットするとこんな感じになる。さっきのお花屋はまだしも、さすがに黒いとこ多すぎて大変気取ってる感じになるけれども、良いじゃないか、羽目を外そう。
あもうあげたか。記念にこれも残しとく。アップロード中のあの薄墨のかかったような色でこの写真をみたときに、あこれあげたわと気づいた。この本を買いました。前回来たときも2冊買った。前回来たときの方が、本を買ったときに店員さん(たぶん副店長ご本人?)がにこにこだった気がしたが、パワフルな接客で今日も励まされるものがあった。この本の中に、のちにベルクのソーセージとなる豚さん牧場とのやり取りだったり、目次をみてみよう、
まず僕はこの、「町の天才を探そう!」という章の中のさらに小さい章のタイトルをみてこの本を買うと決めた。フィールドワークってなんだろう?どうやってやるんだろう、俺がやるのなら、というのが僕の今生きる小テーマのひとつだ。小といっても重要度の比較的ちいさな、という意味ではなく、なんというか今一番近い興味という感じだ。身近である、もう少しで手の届きそうな、具体的な行動に結びつけ、なんらかの結果を得られそうな,そんなテーマ。それが「フィールドワークってなんだろう?」。
ちなみに恭平サンタが子供たちに選んだ本のなかで気になったものから抽出した興味だ。これは。
(坂口恭平さん、2024年12月7日のツイート)
いくら食らいついても苦しくない、そういったものに気づけば意地でも食らいついていっている、その状態がいくつも作れれば、おれは健康的にどこまででも遠くへいける。のかもしれない。どまりだけど、たぶんそうだと思えることだ。
俺はこういう、中学生や高校生のために書かれた本をバカ正直に真正面から読んでいった方がいいのだと思う。そのくらい、読書というものとの面識がない。ステップアップ、ダウン、みたいな世界ではこの世界はないのだとしても、ちと皆難しすぎる、そのうえ僕にとって重要なことでなかったりする。ならば気になることを、ほんとは高校生、中学生のときに知りたかったようなことを、まさしくその年齢の子どもに、今はそういう本が多くて羨ましいのなけどなにも指をくわえてよだれを垂らして(挙げ句の果てに涙を少しつたわせたりなんかもする)ことはしなきゃいけないなんてことはないわけで、この前はなんだっか、高校生のための人生相談、みたいなタイトルの、東畑開人さんの文章も載っている本を図書館で借りた。たしか面白かった。もう血肉になったようで内容は忘れた、けど、良かったことは記憶した。
今日は2000字程度でいいかな、なんて思いもしたけど、というような話は必ずいまくらいの分量のときに出てくる。つまりは2500字を超えたあたりだ。正直このへんまできたら4000字まであっという間にノンストレスで、失うものもなにもなく、不思議だが時間もあまりかからない、書けてしまうから安心してそういう書いてる僕の集中を途切らせるような、影響を与えうることを言えるのがこの時間帯だ。寒くなってきた。ちょうど、今17:20を過ぎたころだけれども文章のなかでも同じくらいの時刻だ。もうここまできたら、寝るまではあっという間。寝ることとかき切ること、達するのに必要なエネルギーが違うじゃないかとも思えるかもしれないのだが、実は同じである。僕の気質によるものなのかもしれないが、安心してその日を終える眠りにつくには、なにか、充分なエネルギーを使って、しなくてはならず、もう正直、それは時間をつぶす、暇をしのぐ、と言い換えてしまってもいいようなことをしているときもある、だがなんにせよそうやって一日(≒4000字)を僕は過ごさなければならない、だから17字半までくると安心する。ただ一日を過ごすのと違うのは、この段階でこの文章をまったく新しく良きものとするような、なにかを今から始めなくてはならない、みたいなことを思うときが文章を書くのにはない。それはすごく便利というか、助かる点だと思う。どちらにせよ、過ごすものだということには変わりないはずなのだが、どちらもなにかしら手を動かさなければ過ごすことすらままならないはずであるわけだし、一日のほくはなにもせずに突っ切れちゃいそうな気もするけど、けっこう難しい。なんこも、なんこもの引っかかりをなんらかの方法で突破しているはずなのだ。たとえば一日を寝て過ごしたのだとして、そこには無意識的だが示唆に富んだ工夫がいくつも隠れているはずなのだ。それを見つけるのは難しい。それは文章と同じだと思う、文章を書いている時間も同じく「一日を過ごす」の中にただ内包されうる、のだが、うんまあそれはそうなのだ。ただ、他の家事だったり本を読んだり疲れてたまには東海オンエアをみてぐっとくるくらい笑えたり,昨日みたいに年に一度のM-1をひとごとなのに必死こいて楽しんで、毎日は続かないとわかってるのに気合いを入れて、「魔剤」と呼ばれるようなエナジードリンクを飲むみたいにそれでも楽しむ、ようなことたちとなんら変わらない、いくつも高尚なものではない、それ自体に意味もなければ価値もない、例えば保坂和志のようなすごい人がそれを広範に肯定してくれるのだとしても、僕が書くことにたいして意味は依然としてない、それがわかる、そうでないのだとしても同時にそうなのだとわかる。わかってしまうのだからどうしようもなく同時にそうなのである。のだけども、昨日まあピンフさんのラジオというかスペースを盗み聞き(最後は匿名でなくちょっと聞いてみたけど)して思った、ということなんだけど、つまり、まずこの時間を過ごす、過ごさなくてはならないというのが我々のもっとも大きなミッションであることはまあそうなのであって、(間違いがない、なんて僕みたいなペーぺーには言えないがまあそうだろう、くらいは言える、一応ひとまず確信はしているのだし)、であるのならば、文章を書くにも「まず過ごすこと」が最上の命題であり得るわけで、生きるために書く、というよりは、生きる、と、書く、は比喩ではなく同じことなのだと言っても良さそうな気が僕はする。というか絶対そうだろ!と思ってるからこんな言い方をしてまで大胆に言っている。そこから意味を発展させたり深めたりしなくていい、言語化できたらなにかしら偉いことはあるのだろうが、別にしなくて何も問題ない、というぶっとい線がひとつある。というのが、僕が文章を書くことと生きることの共通点だと思っていて、書くことを気に入っている理由でもある。のだと思う。