引用、ありがとう

おざすざす。おざざざざざざ。おざざおざ。さて、本日も書いていきましょうかね。窓を開けてます。窓を開けると、電気代を節約出来てるなーという実利的な喜びもありますし、単に気持ちがいいという実利的な喜びもあります。窓を開ける=真っ直ぐ利益なんですね。なんたる意外。当初の予定では柔らかな風を感じてーー風景との境界が曖昧になってーーあるいはーーーみたいな方向に流れていく予想だったのですがまっすぐ実力派でした。なにがなんだかわかりません。掛け布団を頭の下に敷いています。ちょうどいいです。枕だとやり過ぎなんですよね、日中寝っ転がりたいだけのときは。そこには罪悪感というか、それすら背徳感として快感に繋げられる人もいるのかもしれませんが、僕の場合はスリルジャンキーの皮を被った窮屈を嫌うだけの人なので、昼間っからたるんでやるぞ!ってポーズをとってしまうとかえって体に良くないんですね。ややこしいですね。本来ややこしくないはずなんですがね。窮屈を嫌い、体が楽に、軽やかに飄々と、こういうとき僕の頭の中には大抵『バクマン。』の新妻エイジが思い浮かぶんですが、ハイキューだと案外思い浮かばないな。アオアシのあの人なんて名前でしたっけ。栗林のことをトンガリ君って呼ぶ、めちゃくちゃ上手い3年生の、名前みたいな名字で、沢北栄治みたいな髪型の、なんとかナリ!とか言っちゃう。手間かけて探してる割に、全然新妻エイジじゃないサイド、っぽいけど案外こっちには思い至らないんだよなという対象として挙げたいだけなのですが。切ない。なんでだかわかりませんが、今のところ新妻エイジが頭に浮かびますね。シュピーン!シュババババ!コワーイコワーイ…ズギャギャギャギャ!!とかちゃんと声に出して描いてる感じがありありと、それはもうありありと浮かんでます。あ、義経だ。なぜか今更ポンっと出てきました。出てきそうだなーと5秒頭を捻ったら出てきました。よしなりだっけ?違うなあ、までは辿り着いてたんですけどね、文面上で考えていたときも。やはりほっとけば勝手に出てきてくれますね。出てこないならそれはそれでいい。この世の全てとその距離感で接するのが夢です。実現はしないでしょうが、今のところそのイメージに近づけば近づくほど、僕の足どりの軽さは際立っていくように感じます。強いない、強いられない、求めない、求められない、期待しない、期待されない、いや期待はちょっとずつお互いにあってほしいか、でも前提にはしたくない、自然発生、自然消滅でお願いしたい。そんな感じですね。ああ、完全に義経だ。義経健太だ。逆に今、目を閉じて休憩していると義経健太の姿しか見えません。でも東京エスペリオンのユニフォームは着ていませんね。沢北とイメージがごっちゃになってるからですかね。それとも最近アオアシを読めていないからですね。3ヶ月だったか4ヶ月だったか、コミックスの間隔があまりに長く感じて、発売日近くにすぐ買うリズムだとかえって負担になると思い始め、最近はあえて新刊出ても1ヶ月は買いません。もう出ていて、あとは買うだけという状況を継続することで、新刊ロスをカバーしてみています。おすすめです。新刊ロスさえ漫画読みの醍醐味なんて、そんなことを有識者から言われているような気がしてくるような気もしますが、凄くクソを食らってほしい。クソ食らえというより、クソを、食らってほしい。ちゃんと文節に区切って、食らうという動詞を食べるという意味の方向に絞っていって食べさせたい。SDGs。ぶん投げてぶつけるみたいな意味で解釈した場合、下がアスファルト系か、あるいはコンクリートか人の手の加わった木造建築である可能性が高いですからね。これはもう確率の話と言って差し支えないでしょう。個人的な怨みではなく、SDGsに向けた施策としての有用性を考えた結果、彼らはウンコを食べた方がいいということです。もう、こういっちゃなんですけど議論の余地はありませんね。QEDsです。こう言っちゃなんですがね。
最近嬉しいことがあってですね。何かってーと、「あ、使えるな」って素材を生活の中でよく拾えるようになってきたんです。何に使えるかって基本は雑談の中の蘊蓄でしかなかったんですけど、その出力先も見つけちゃいまして、ここなんですけど。ありがたいですね。ありがたい女性botというアカウントがTwitterにあるんですが、あれの何がいいかってリプライなんですよね。「ありがとう」「ありがたい」しかないんです。中の人が例えば、「一人暮らしの家で昼間に食べるコンビニ弁当を前に、いただきますを欠かさない女性」みたいなことを言って、リプライ欄開くと例の文言で埋め尽くされてるわけです。ありがとう。よかった。しか、現にその光景を前にして浮かび上がる感情はありませんし、捻り出す必要も感じません。たまに「本気でこんなんが良いって言っちゃってるワケ?」ネキも湧いているのも、いつもの光景です。ただそこへのリプライ欄をさらに開いてしまうと地獄なのでご注意を。そこから先は先ほど不要とされた言葉が堰を切ったように溢れ出しておりますので。頼むから他所でやってくれ。そもそもイーロンマスクのbot大虐殺を耐えてるのか定かではありません。あれは手動だからいいのか。その辺はまあ、いうまでもなく不要な詮索なのでよしとしましょう。ありがとう。
ほんでその素材、めちゃくちゃ軽量級ですけど今ちょうど読んでいる『職業としての小説家』でいうところのマテリアルですね、これを感じ取る頻度が明らかに増えて、出力する場所も見つかったのはいいんですが、その間にある部分、そう表現するかというところですね、もっと細かく分解していくとどういう言葉遣いで書くかってところにかなり迷いを感じながらやってるんですね、ここ5日間くらい。ってとこでね、やっぱり現れるもんなんですよね、「フムフム」となる文章が。今回の躓きに関してはなんとなく続けてれば改善していくものだという感覚はあったので、ちょっと滞りながらも続けていたんですが、ホントドンピシャって感じで嬉しいですね。まあ栄養にするってことは都合よく解釈するってことを内包していると思うんで必然といえばそうなんですが、村上春樹先生が2015年にはもう言及してくれていました。たまにはそのまま引用なんてしてみようと思います。

 僕が最初の小説『風の歌を聴け』を書こうとしたとき、「これはもう、何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」と痛感しました。
というか、「何も書くことがない」ということを逆に武器にして、そういうところから小説を書き進めていくしかないだろうと。そうしないことには、先行する世代の作家たちに対抗する手段はありません。とにかくありあわせのもので、物語を作っていこうじゃないかということです。
 そのためには、新しい言葉と文体が必要になります。これまでの作家が使ってこなかったようなヴィークル=言葉と文体をこしらえなくてはなりません。戦争とか革命とか飢えとか、そういう重い問題を扱わない(扱えない)となると、必然的により軽いマテリアルを扱うことになりますし、そのためには軽量ではあっても俊敏で機動力のあるヴィークルがどうしても必要になります。

村上春樹『職業としての小説家』より

いやそれっぺえ。それっぽい方に目が行ってしまうくらいそれっぽいですねフォーマットに落とし込むと。それはいいとして、ひとまずはこの、ちょっといいネーミングが即座に出てこないあたりって感じなんですが、軽口ヴィークルでやってこうと思えましたね。ここまで真正面から欲していたところの、しかもどう見ても達人の言葉ですから、この瞬間にかち合う事ができた縁だけで信ずるに値しちゃいます。兎にも角にも、一旦盲信しないと前へ進めない生き物でもありますので僕は、盲信→幻滅のサイクルを数こなしてく感じで、ありがたく栄養にさせてもらってまたひたすら書いていこうと思います。ありがたい。こちらも負けず劣らずありがたい。
これ後付けなんですけど、最近肌にあってるんじゃないかと育ててきた盲信幻滅理論を後押ししてくれたきっかけがありまして、ちょうど今日なんですけど。

寝れば寝るだけいいかなと。質はその次。まずは量を確保するというところかなと思います。どれだけ寝られたかが一番だと思うので。比較的、ずっと寝ていますね

大谷翔平 試合後インタビューより

おおー。いささか乱暴な解釈ですし、すぐに枕詞に「何事も」を持ってきちゃう人は極めて好みませんが、僕としてはトライ&エラーって表現よりこっちの方がしっくりきます。過程であれ「失敗」という言葉を使うことにどこか居心地の悪さを感じるからかもしれません。あと引用こすりすぎて、明日からは使わないと思います。でも今触れたので、イーブンになりました。わかんなくなってきたぞおい!!
さて、いよいよなんの話をしていたか忘れましたが、というか僕の書く日記(?)に本筋なんて元々ない気もしますが、強いていえば書きたいこと、というかかけること自体は無限にあるなってことを感じ取れるようになってきた。嬉しい。ツヅケル。って経過観察と、火のないところに煙を、遭難中にばったりピンポイントで隠遁じいちゃんと遭遇する軌跡を探るのではなく、あくまで自らが既に持っている灯火を、絶えそうになっては風邪に背を預けて方向を変えて進み、自然に流れ続けていけば、当たり前みたいに必要な道具もまた現れ続けるってことですかね。句を並列したとは思えないくらい後ろが重たくなりましたがいいでしょう。だから僕に今、意識的に試みるべき事があるとすれば、あんまり馬鹿正直に差し出される道具だろうが、僕だけが気になってしょうがないガラクタに見えるもんだろうが、とにかく使ってみるって事なんでしょうね。それにしても、今日は引用が多かったんで最後にもう少しだけ自分の言葉で書きますが、大谷翔平も、村上春樹も、坂口恭平も、今現在僕の中で偉大とされている人たちは、どうも一つの方向に向かっているように見えるんですよね。局面局面でようは同じようなことを言っているように、まあ僕が感じているだけなんでしょうが、今に至るまで哲人たちが追い求めてきた真理ってやつなんでしょうか、点在して、というより今挙げた人たちは散文的に、それぞれの道を極めんとしている中で、なぜか僕の眼を通してみるとひと方向に進んでいるようにも見えるんですね。今んとこ見てきた中で最大級のトリックアートです。そんで、ほんとただの妄想として聞いて欲しいんですが、一つの方向に向かっているわけなんで、なんでそんな寄り道してんだろう、とさえ思う部分がそれぞれにあるわけです。わけです、とか言ってわけわかんないですよね。こんなたかだか30日日記継続できて人生の喜び最大値更新しかけてる若造がですよ、あの哲人たちに、あの人だけじゃありません、全ての人に、全てのものに思ってます。ああしたら一番面白くなれるのに、なんでやらないんだろう。実現できる能力を持った人なんて山ほどいそうなのになあ、みたいなことを思っちゃう事があるわけです。こんな若造を受容する世界、ありがたいとしか形容できません。重ねてありがとう。長々書いててあれですが、今漠然と見えているこの道が、こんだけ人に頭の中で要求しときながら細かいところはおいおい言葉にしていこう、なんなら言葉だけじゃなくて音とか色とか紙とかペンとか、最適の形で出力できればなんでもいいと思っているこの道が、進むべき道とやらなんでしょう。窓を開けることとは対極の、こんなにも仰々しく、現状ではなんの利にもならないものが僕の原動力となっていると思うと恐ろしいところもありますが、この道にあるものは全部成功なので、歩いてみると案外こんなもんかって感じなんでしょう。今日はなんと11枚も書けたぞ。引用さまさまである。こうして男は専業ゴーストライターにならないようにだけ気をつけて、なんとかやっていくのである。ほんではまた明日ー!

2023年5月5日 快晴、未だに4月と一回書いてまう


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