来月よみたいのは
千葉雅也のマガジン。ついに、数ヶ月ぶり2回目で再加入、いや電撃復帰。変化は最初、劣化の顔をしている、というタイトルがさっき見えて、前もすごくいいなと思ったのになんで読まなかったんだろと思って、きっかけのひとつに。
カフカの日記。と書かないことには次のが思いつかないから書いたが、来月読みたいわけでもない。来月買わなくてもいい。今月欲しくなって、ジュンク堂で立ち読みするがしっくりこない。今ではないのか、僕ではないのか、後者なら怖いので考えるのを打ち切る。でもどちらでもいいのだろう。とりあえず、そのお代だけ、貯金としても、すぐ使えるようにも、懐に、いや腰に?どこだかわからないが、脇差のように備えておくことにした。
「学び」がわからなくなったときに読む本。学びがわからなくなったときに読もうと、ジュンク堂で思いを強めた。不意に見つけたときは心動かされたが、今じゃない。僕には今お金がない、あるが、「お金がない時期」を生きてはいるので、その生き方を、差し迫ったようなあの必要性に駆られるのではなく、しかし切迫した様子で、訓練したいのだ。そして、同じことをいうようだが、自分のリズムにより素直に。欲しいと知りたいと読みたいと持っておきたいはどれも違った気持ちで欲求だが、そのどれか、というより、どうなのか。こうしたらどうなのかというより、どうしたらこうなるのか。ぼんやりしているようで感覚としてはハッキリしている。今は学びがわからなくなっているのではない、学びは当然わからない、なにかひとつわかる時もある、それも当然だが、大きな筋で言って、学びとは何か?とそもそも気にならない。その時間の中にいる。で、あれば今でなくてもいい。今読むのは、あの本に失礼だから、とかそういう「リスペクト」みたいなしょうもないことの話をしているのではなく、リズムの問題であり、俺は小説を書いているのだから、なんであれ、いつであれ、なので、自分のリズムに嘘をつくのが一番良くない。意味のないことなのだ。意味のないのは嫌だよね。自分にとっての意味がないのはいやだ、というか自分にとっての意味のあることっていうのがほんとに僕を嬉しくしてくれて、自分の意味ってのは自分のリズムで、それってリズムだから意味を持っていないのだけど、だから意味、以外の言葉を探したほうがいいのかもしれないけど、ま、眠いし今はいいかなみたいな、そういうこと。
けものになること。次読むのはこれ。これを読める日がくるとは。少なくとも、小説3部作?のなかでこれを読むのは最後になるだろうと思っていたから、でも建設現場でもなく現実宿りでもなく、というか当たり前のようにこれでもなく、なんて選び方じゃなく、ジュンク堂にあった小説はこれだけで、開いて、保坂和志の読書実録をパラ読みしたあとだったからかわからないけど、あとでもなかったと思うけど、これ読める、というか読んだら面白い、今、と思って、結局その日は買わなかったんだけど、で、別にこれも来月じゃなくていいんだけど、次読むのはこれ、と決めると嬉しくて、そういうことなんだろうと思っている。次に読む。何かを知るために読むのではない。でもなにかを知ることになるだろう。間違いのないことで、それは読む理由にするには野暮だが、間違いなく、読むまで倒れないようにする僕の体をささえてはいる。