無題 2024年7月〜9月

そんで今日も無題を書く。9月で、1月から始まるとしたときの一年が4分の3は終わったことになるわけだが、一応僕はその4分割したそれぞれにタイトルをつけて、僕のざっくりした動きの記録としてマガジンにまとめていて、9月までの3ヶ月はどんなんだったかなーと振り返りながらも9月中にはタイトルをつけられなかった。それで、あらためて今「無題」がふさわしいんじゃないかと思った。無題、という言葉を思いつくまでは、ただぼーっと生きていた(そうできていた。それでよかった)期間だと感じていた。

ぼーっとして、その前はちょっとポエミーで暑い感じで、その前は、一年を掌握しにかかろうとしていた。どれも今まだ継続中だ。ただ、どれもあのままではうまくいかなかったから、今度はぼーっとする技術を上乗せしようと考えたわけだ。僕があれらの計画を実現していくためには、ぼーっと、がめつくやっていく技術が必要だと思った。それは胆力だとかなんとか、そういういい感じのタフさを表現する言葉でいってしまうと違うものだ。もっとシャープ。ただただ、パズルのいちピースとして、ということも違って、なんというか完全にやっているときは別のことをやっているのだけど、こうして落ち着いているときに見てみると積み重なっているのがわかる、絡み合っているかはわからないが、誰もかれも必要だからそこにいて、才能を発揮するのをまっている。ただそこに一緒にいるだけの、仲が良いわけでもない、ただのクラスメイト、がそこにいるように見える。

この書き方ならば、書く、書いていない状態から書く、という感じ方ではなく、書き出すことができると思う。ただ前の続きを、その「前」ってのが数秒前だろうが2日前だろうがなんでもよくて、ただそれを読んで、めんどくさいけど読んでみると書きやすいのでいいのが書けたと読み返すとき以外のときも、どちらかというと書き終えたあとではなく次、書き始めるときに読んでみる。するとうまくいく。少なくとも、書き続けることができる。質とかなんとか関係ないのだとわかる。続きを書くだけだから。今日はどうで昨日はどうというのは、まあ、いつわかるんだろうな。書いていないときにわかった気になっているだけのものなのかもしれないよね。書くことをライフワークだとか生業のようにいうことに後ろめたさがある。ぽっとでのひよっこが、すぐにやめてしまうかもわからない奴がそんな思い切ったことをいうのにはもっと時間が必要だと思える。ならば言わなければいいのだが、言いたい。生きるために書くのが必要なのだとは思わない。そうやってここまで生きてきていないし、苦しいながらもなにもしなくても生命を維持していくこと自体は可能だと思う。それは想像ができる。が、それじゃ意味がない。わざわざ23歳以降も生きてやってる意味が。だったら死ぬ、というのはわからないけど、ずっと寝ていたほうが楽なわけで、全部、いろいろ捨ててしまって、でもなにか別にいいやろというものも持ち続けてしまっていて、持ってたら持ってたで苦しいけど、捨ててしまったらもっと最悪だろうなと思うから、だったらせめて苦しいだけの人生にはしたくないというか。くそめんどくさいし、死ぬほどやりたくないけど、まあ暇だしやってみるか。その代わり体壊す前にやめるから。

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