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朝の仕事を片付ける/絵コンテ描いてみる/気づき

おはようございmざす!パソコンからいきます11/12。ためには日付ものっけちゃったりなんかしてね、仕上げの卵黄みたいな言い方ですけど。さあ大きなイベントとしてはジェフユナイテッド千葉の今シーズン最終節を応援しに13時キックオフに間に合うようフクダ電子アリーナに向かうというのがありますが、その前にやっておきたいことがたくさんあります。だから今日はそいつらを片付けてく推進力を補強してくれるものとしてこいつを使っていこうかなと思っとります。そしてやっておきたいことの一つでもあるのがこちら日記の書き出しですね。最近これは日記というか、なんなんだろうと他者に説明するときに言い淀むことが、言い淀む必要のある事態に身を置くことが増えたので、まあ毎度言い淀んでるだけなんですが着実にイメージはまとまってきている感触もあります。僕があまり読めないから先入観がないのかもしれませんが、僕が書いているこれを、僕はたまにというにはあまりにしばしば「いま小説書いてるな」と思うことがあります。だからそんな時は小説。人に説明する時はそう言いづらいですが。なんとなくエッセイというのは近そうで最も遠い感じがします。何気ない日常を面白おかしく書こうと思ってやっているわけではありません。でも人に説明する時はその訳が一番向こうに引っ掛かりがないような気もします。あと実況ね。日記、というと道ゆく人は皆振り返って書くものだと思っているらしく、だから昼時にもう今日の文は書き終わってますなんていうとそれ日記なん?と問われることもありました、今日のことはじゃあいつ書くのと。今日面白いことが、例えば発表された来季のユニフォームがめちゃくちゃカッコよかったり、10数年ぶりのプレーオフに向かう前、最後に持っていたボールを観客席に蹴り込んだら落下店には僕がいたなんて出来事があったとしても、明日書くとは限りません。これは半分意図的なことであって、半分そうせずにはいられない身体のあらわれでしかないとも言えます。あとはなんだろう、今のところそのくらいかな。とりあえず蘇我へ向かう電車を調べよう。10:49発の電車かな、それならフクアリには11時ちょっと過ぎには着くだろう。1本前のに乗って41分についてもいいのだが、10:50あたりに来てくれと言われてカタクラがそれより早く来るとも思えない。なんなら11時は優にすぎる腹積りでいたほうがいいということで、僕は11:54に着くこの電車で行くとしよう。となると家を出るのは10:30くらいが目安かな、結局35分過ぎとかになってちょうどいいはずだ。でも今日雨か、あんまり遅いと走るのも大変そうだな、気持ちはやめに。あとは絵を描くのと勉強の哲学を読みすすめたいのと朝コーヒーをドリップしていた時の感覚で言うと久々にティア金もちょっとやりたくて、昨日2時過ぎとか変な時間に起きてしまった際に思いついた「ラーメンスープがぶ飲み、カメラに向かって首を傾げてマルちゃんっ。タイトルは『人に忘れられたときさ…』」という当時の僕にとっておかしくてしかたのなかった脳内映像をどうにかして形にしときたい。あとツイートしたいネタもいくつか。「ティッシュ使ってやってたこと、目の解像度落とせば全部タオルでできる」とあとあれだ、昨晩から今朝にかけては22時就寝、2時から3時過ぎまで起きててそこから7時半までねるという変なリズムだったので、珍しい夢の見方をした。いつものように支離滅裂で、ひっくるめて面白かったことしか覚えていないものが、今日はやけに鮮明に覚えているし、すごく長い旅路を辿ってきた形跡がまだ僕の中には残っている。その中で代表的だったのが、というかツイートできそうだったのが、「バイト先でレジ内の金額が売上と照らし合わせてどうもあわず、どころか従業員の誰かがお金を盗んだのではないかという話になる。なんか刑事みたいな人に対してバイトの先輩は、いやあ、あいつはやりますよけっこうと言いながらSnowMan深澤を深く疑っていた。僕はただたしかに…と思うだけだった」というものだ。あれはよかったが、なんとなく「バイト先」という言葉をTwitterで使うのがいまだ忍びないと感じるので、ツイートはしていない。似たような事例として、コンビニで見た話を平日昼間にツイートしたり、おっさんと言うほどツォ胃を食っていない男性をサラリーマンと表現しようとして、いやそれ言うの無職だけか…?とやめたりすることが挙げられる。もう少し自由に、というか気持ちよくたくさんツイートできるようにするにはどうしたらいいだろうか。そんなん気にしない、というのはあまりに雑で、それこそツイートの一つ、心象ひとつ拾い上げてパッケージングしたものならともかく、僕が楽しく生きるための行動規範に組み込むにはいささか役者不足であると感じる。これもまあ、おいおい、まずはできるツイートから。徐々にこれならまあ、なんのリアクションがなくてもがっかりしないかなということを、それでいて僕には面白くてたまらないことを拾い上げるのが上達してきた気がする。

いったん場所をうつす。といっても僕が腰を下ろしている場所が変わったわけではない、けれども改行と、僕が体を動かして移動すること、書くことにおいて何が違うのかはよくわからない。とりあえず、マルちゃんのネタは今日の絵として絵コンテにしてみることにした。ジブリの絵コンテ集買いてー。3300円くらいだが、今月なんだかんだクレジットカードの利用は6万円いくかいかないかだろうし、後半やたらとシフトに入れてもらったのもあって、かなり余裕があるから買っても大丈夫なはずだ。まあしかし、こんだけ働いたんだから、と買うのはやめておこう。自分へのご褒美というが、なぜ僕がお金を払わなくてはならないのか実は全然わかっていない。浪費のお笑い、そうでもしなきゃやってらんない、とはいったん距離を置いてみたほうがいい。そうせずにはいられない、ただそれだけのことを探してみる。生活水準は下げる、自分の水準を死ぬまで上げ続ける。当たり前に余白が生まれる。その必然性と偶然性と、ちょっとのスパイス。最後のは音がいいから入れただけだが、案外馬鹿にならないかもしれない。二項の間に広がる無限。坂口さんでいうところの思考都市、千葉さん(の勉強の哲学)でいうところの「言語それ自体」と触れることのできる空間。僕でいうところのスパイス。それはちょっとダサいかも。検討の余地あり。

マルちゃん

こんな感じのイメージ。やっぱりおもしろい。首をくいってやるやつ初めて描いたけど、くいっとできててよかった。Dr.ヒルルクとはなんの関係もない情景のようでいて、彼も最後は盃をぐいっと飲み干しましたから、まったくその辺からきていそうな心当たりはありませんが、関係があるのだとみることもできるでしょう。

9:06、さあ気がつけばネタの処理も絵も片付き、まあひとつが成仏したことによって後のネタはどうとでもなりそうなんで、割ともう今すぐに家を出てもいいんじゃないかという状態にはないってきました。ただゲームは父が一階に降りてきてしまったので厳しいとして、あるいは一緒にマリオブラザーズワンダーをやるという手もあるし現実的でもありますが、あとは本を読み進めたい。図書館で借りた本なので電車に持ち込むのは若干の気恥ずかしさのようなものが伴い、ブックカバー欲しいな、自分で作れないかななんて最近は考えてみていますが、電車は電車で、そこでしか読めない本を持っていくというのも面白さの幅を担保する手段としては有用なので、いっとき持ち歩いていた1Q84がまさにそうであるように、だから今はスタジオジブリ物語を持ち歩いて、買った当初、3ヶ月前くらいかな、君たちはどう生きるかが上映されたあたりだからもう少し後か、はじめは頭から読もうと躍起になっていましたが、僕はとにかく大好きな風立ちぬのパートを読みたかったので、時を経て再び読み始めた昨日は、200ページすっ飛ばしてそこから読みました。この読み方なら僕はなんでも読める気がする。当たり前にも聞こえるが、大事なことだと思う。死ぬまでできることだけにこだわる、あとは適当。ぼくらは躁鬱人だから。いつも一人だけど、孤独ではない。今、僕は小説を書いている。

10:04、メモは取らない性分だが、気づいてしまった上に書きたくてしゃーないことがあるので書く。粗品のYouTubeチャンネル、『子供向けの曲やのに途中でエグいコード入れてくる』シリーズの、おジャ魔女どれみ編にて。いやそのコメント欄について。その中の素人にもわかるように表情でうんぬんかんぬんしてて、さすが、すごいという旨。まずこの手の、それもコピペかな?というくらいのコメントは多いからお前らROMが足りんぞというお節介はいったん置いておく、そもそもおジャ魔女どれみのコメント欄のこれこそが元祖である可能性もある。検証は面倒くさいのでしない。だから糾弾はしない。で、何が目についたのかというと、というかここで初めて脈々の紡がれてきた違和感が正体を表したという感じだが、僕は自分でうんちくを垂れるのが好きな割に、Twitterやら今日のYouTubeで溢れる「考察」をみてモヤモヤすることが多くてなんでなんだろうと思っていたのだが、それはやはり同族嫌悪というだけではなかった。帰結があらかじめ定まっているなかでガチャガチャやってるのが気に食わなかったのだ。つまりこの場合、粗品はすごい、というのでコメントが締まることでおそらく確定している中で文の調整を行なっているように見える。わからないが、みればわかることもある。ガチャガチャうんちく垂れた末の、結果がどうなのかというのを見たいのだ。すごいのを前提とするのは構わない。粗品は面白い、なにをさせてもだいたい面白い。失礼ボケを集めた動画を見るとたまに引いてしまうが、あま面白いのだろうという感じがする、ここは突き詰める余地があるが。漠然と場のコードに合わせてしまってはいる。ただ文章にこの言葉を使ってはいない。そこが今重要。そうか、そうだったのか、スッキリした。腑に落ちることばかりではつまらないと山下澄人さんは言ったが、たまには気持ちがいいこともある。キンプリが2人体制になってからの曲、詩にびっくりほどひねりがないのだが、そこを目指して作られているのだろうか。これは文句である。人の文句は1.2文でおさめるとして、まあこのへんにするとしよう。もうちょっと「帰結が決まった文章のつまらなさ」について細かく書いていきたいところだが、なんかもう違う方向への流れが生まれている気がする、つまり僕がそういう気分ではないということだが、4400字程度にもなってきたことだし今日もここまで。今日は楽しかった。


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