父の睡眠時間/2024年の抱負を決める
おはようございます!元旦に書す。昨日はうっかり絵や字を書くのを忘れてしまったので、朝起きて布団やらを洗濯して、コーヒーをいれてから書きました。大晦日という字を。新しい筆ペンが欲しいですね。ぶっとくかけるやつも欲しい。僕は勝手にちゃんと墨で描く筆を管理がめんどくさいものだと思い込んでいるけど実はそうでもないのかもしれない、筆の洗い方を今ちょっと調べてみたけど、ぬるま湯洗いも今ならたいした負担ではないかもしれない、穂先が下にくるように吊るして干すのがいいらしいのだが、洗濯ラックとかに水彩画の筆とかも含めてかかっていたらなんかいいじゃないかと思った。鼻水がとまらない。昨日バイトに復帰して、なんだかんだで難なく乗り切れたからと言って今朝起きたら体が万全になっているわけではないようだ。というか僕の万全はもう毎朝アップデートされ続けていて、今はこうだというだけなのかもしれない。鼻づまりは朝起きた時だけ、今朝ようやく洗いに出したシーツや枕カバーは、なんとなく病床という言葉を思い浮かべたくなるようなどんよりとした雰囲気をまとっていて、そのせいかはわからないが今朝起きた時もまだ明確に風邪の延長線上にいる感覚に見舞われた。ずいぶん治ってきているというだけの。
あとで本屋に行きたい。近所の、車で10分ちょっと、まっすぐの道を走った先にあるショッピングモールの中にある丸善。あそこはいい。あれはたしか去年の3月にオープンしたんだったか、というかいますんなり去年と言えたことに驚いているが。なんなら言い間違いに該当しそうである。3月と聞くと随分前だなあ、となんとなくこの遠さを表現するつもりで去年という言葉を使ってみたら、当てずっぽうが当たったような感じだ。去年だと思って去年だと言ったわけではない。昨日までならいやまだ今年の話か、随分前のことに思える、とか訂正をしなくてはならなかったわけだから。ラッキーなのかなんなのかわからない。新年早々冴えているということでいいか。
父が全然起き上がってこない。それはもう、8時間くらい寝ている。朝、時間に余裕のある日程であるとき父は毎度、眠りについた時間からすると長いこと布団にいすぎじゃない?というくらいの時間にならないと部屋から出てこない。いや、起きてから長いことスマホを見ているだけかもしれない、それにしても20分とかそこらの話だろう、7時台に部屋をのぞいて彼が目を覚ましていることはほとんどない、まあそれだけでいえばそんなもんか、という程度のことだが、父は同時に、どれだけ遅くなろうとも23時半には明かりを消し、眠りについている。だから次の日が完全なる休日だったりすると、8時間から9時間は平気で寝ているということになる。次の日が仕事で、いくつか出勤時刻のパターンがあるのだが6時半ごろには家を出ているような早いものでいえば、前日は21時半くらいには明かりを消していることが多い。日によっては21時。洗濯物を干す役割をメインで担っているものとしてはこれが結構厄介である。さておき、そういう日なら5時に起きているのだとすると、7時間半から8時間睡眠か。なんかだんだん父の睡眠時間への向き合い方が浮き彫りになってくるような気がして、いい気分はそこまでしないな。父は結構、寝る時間も起きる時間も決め打っているようで、8時以降にならないと起きていても部屋から出てはこないとか、22時になる直前に新しいチューハイ缶を取ってきて今日は遅くなるのかなと思っていたら、きっちりその30分後には布団に入って目を閉じていたりする。寝つきも良く、明かりのついていない部屋に入ってきてそのまま横になるようなときはもう、15分と起きていない。10分以内にはいびきをかいて眠り始める。まあ、こんなもんにしとくか。何を書いてんだという気分が強まってきたところで。しかも正月の一発目から。
このまま原稿5枚分までは書きたいなと思っているのだけど、もうあんまり書くことがないな。他にやりたいことでもあればすぐに移行しているところだが、母も今朝食の準備をしているようだし配膳のタイミングになったら手伝いに下に降りて行こうかな、とか考え始めるといまここでやめるのも歯切れが悪い。まあいいんだけど、部屋をうろちょろしているだけでも。シーツは今洗っているところだし、布団と毛布を天日干しに出してもいいかもしれないな。図書館はしまっている。ちょっとここに色々書き出してみよう。母が、やっぱり1日ゆっくりできるといいね、ということを朝起きて、僕がコーヒーをいれているときに言っていて、ほんとそうだなと思った。昨日、1日でも年末に働いておこうと思えたのはお店が元旦は休みで、どうあがこうと今日は1日ゆっくりしていられるとわかっていたからである。お店が元旦だけ休みであるのを知ったときは、俺全然働いちゃいますけどね、逆に年末年始働きたくなりますけどね、なんて言ってみたものだが、現実には派手に体調を崩してクリスマスから気付けば3が日もすっ飛ばしてようやく外に出られるようになるなんてこともありえたわけだから、やはりせわしなくしすぎないというのは大切なのかもしれない。とはいえ体調を崩してみないと休みどきがわからないというのもそうなので、僕なんかは全然動けますけどねえ、とイキっては人一倍早くダウンし、でもなぜかみんなが疲れて動けないときにニコニコで動き回れたりする、そのくらいでちょうどいいというか、動きの総量なんて人と比べてわかりようがなくてタイミングタイミングで照らし合わせて落ち込んだり悦に浸ったりするしかないのだとすれば、やはりいけるとこまでいっとく、このへんにしとく、という線引きの仕方はあらためてどこまでも自分本位で、他人の動きは参考にはなってもいうことなんて聞いたって仕方がないのは当然に思えてきた。2024年の抱負はどうしようかな、そういえば今日ここで考えていこうと思っていたのだった。去年はやり切る、一昨年の分も去年の同じタイミングで決めたが、律するだった。ほんとにそれぞれ積み重なっていく形でがらっと生き方を変えてきた2年間だった。今年も多分そうなるのだと思うと、おんなじ標語を常に胸に、なんてのが性に合わない人間であるとわかっていても言葉のチョイスに力が入るものである。ざっくりしたものの方がいい。まあぶっちゃけ心に決まってはいるかな。売る、だ。商品化する、という意味だけではもちろんなくて、顔を売る、とか、なんなら油を売ってもいいかもしれない。とにかく、僕なりの営業を続ける一年にしようということである。やり切るの年は、作る、とにかくないところに何かを作ることに注力して、それをカタチに残す練習をしてきた。それはもちろん今年も続く。律するも、まあ実質去年からなんだけど今年も続く。一年続ると、自分のOSに馴染んでくるから無理がなくなる。それがあと何年かな、天寿を全うできたとしても浅田家が早死になので60までだとすると、35、6年か。意外と短いな。でもあと36回くらいOSに新しい基準を搭載し続けられるわけだ。仙人になりたいね。まあ去年もしばらくは、あれ今年、やり切るでいいのか?やり切るって実はあんまり賢い人からすると奨励されないことだったりしない?とその度不安になりつつも、その度ぼくにとってのやり切るをアップデートしてきた。やり切るがベースでこれは例外、というやり方だけではなく。もっと広く捉える。中断というものをいかに意識的におこなっていくかというのも非常に重要だ。まだまだこれについて考える余地は30年分くらい残っている中で、無情にも年は明ける。明けてくれるから、無理にでも新しいことを考え始める必要性が生まれるありがたいことだ。必要性に迫られなければ、あるいは千葉雅也さんはこれを、というとまた違うだろうが、強迫性と深く考える、勉強することの関係について以前ツイートしていた。必要性、自分本位の幹線上にある必然性に迫られることなしには、僕は僕のOSを揺るがすほど深くものを考えることができない。しかしたぶん作ることはできるのだろう。自らの興味と一生関係なく見える場所でもものを作ることはできて、だから形に残しておける。坂口恭平さんが自らを「空の器」と表現しているところにもつながってくるかもしれない。美術にはそういう考え方があるみたいだ、あれ美術だったか、自らのこの身体はインスピレーションと作品との間にある通路でしかないというような、どこで読んだかも朧げな考え方。小説が走り出す、そのときにはもうやめたくてもやめられない、と山下澄人さんはいっていたがそこにもつながってくるだろう、そういうものを書いているとき、もうそれは自分のことについて書いているわけでもなければ、たまたまこの身体を介して形になっているだけであって僕が僕である意味もないと、ただ目の前でなにかが動き続けて、字だったりとか絵だったりとか形に残るやり方でそれを出力し続けているおかげでそれは作品とか、目に見えるものという意味で創作と呼ばれたりするようになって、その瞬間それに価値が生まれたということになったりもする。昨日ここで書いた、僕の手からは完全に離れた機関。初めはそれが作りたかったというわけでもなく、ただ形にしなくてはならない、したほうがいい、なんなら抱負はやり切るだから、というくらい他人任せな初動でもって友達や先輩に声をかけてあれこれ作ったものを交換する場を作ろうとしてきたわけだが、それが僕の予想した形とは違った形で、というところまでは期待どおりだったが、予想とは違った段階で、僕にとってたまらなく嬉しく、ありがたく面白いものに既になっている。プラットフォーム、就活でなんにもうまくいっていないときにやたらと心惹かれた言葉でもある。なんの知識もないのにそれを作りたいと思っていた。かっこいいからだったかなんだったか、理由は忘れた。そこに僕はいない。でも僕が作ったものは骨組みとして、いつかはその骨組みさえとっぱらっちゃえればいいと思っているけど、そこにある。僕はそれが、僕の存在を証明するものとしてではなく、愛おしく思う。きっと人が自分の頭で考えて、なにかをしようと絶えず動いているのを見るのが嬉しいのだと思う。僕はそれができる場所を死ぬまで色々提案し続けて、必要であれば維持に、必要であれば破壊に努めるのだと思う。だとすれば僕が売るべきはなんだ、という話にもなってくるが。なんとなくだが、それは漫画だろうと予想している。毎日書いているわけじゃないんだけど、とりあえず今年はそれを毎日にしていこうかな。ぺらっと白紙一枚にコマを割って、それもその日描きたい分のサイズだけ、それを順番に完成させて次に進むことにこだわらず、無数に並行して制作していく。僕にとっては物語がなくても、セリフがなくても、コマで割られていてベタが入っていればそれは漫画なのである。それ以上はまだわからない。1ページ3コマくらいで構成するのであれば、一ヶ月で10枚ほど作れる。1年で300万円ぶん売りたかったら一ヶ月で25万円か。つーことは一枚25000円でいいの?なんか安すぎる気もするけど。まあいいか、漫画はこんなもんで。27500円にしようかな、一気に見栄えが良くなる。で、本で300万円。残りの300万円は、僕は音楽とかはできないけどお笑いは好きなのでしゃべって稼ぎたい。広告収入とかインプレッションで稼ぐみたいなチャチなやり方はせず、ただ無料で聴けるラジオを収録して垂れ流し続けて、それ毎日やったらやばいかさすがに。そしたらヤバ強リスナーがついて、投げ銭でもやってけるようになるかもしれない。月25万、これが一番大変そうだな。でもあんまりなにかに偏った稼ぎ方しない方が僕みたいな人間はよさそうなので、これを10年後の目標として据えとこう。あと100万円。友達ともなんか作って売りたいよな、今やってる交換日記もそうだし、いろんなとこでやって、なるべくギャラ配って、最後に残るのが100万円くらいになるのが理想だな。友達と作るもの全ての工程に携わって、俺のギャラは一律100万円みたいな。なんかカッコよくていいじゃない。みんな俺よりギャラが高かったらそれはそれでよし。さすがにそんなことはないか。ガバガバですが、そして今年からすべてを金にしていくという意味ではなく、むしろ全くお金にしないつもりで営業にとりくんでいく、まさに顔を売るイメージで、ということで2024年の抱負は「売る」、これでいかせてもらいます。よろしくお願いいたします。