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なにがおもろいねん、なにがどう美しいねん、可愛いねん

おはようございます!鼻水。2日空いたら電車内での体勢のコントロールが下手になっていた。もともと体をどこかにぶつける日はとことん連発してぶつけるイメージがあるのだが、まあそういう日というか時間帯というか。ああいうときはたまたまが重なったなあと思うとさっさと抜け出せるような気がするのでそうしている。津田沼についた。ドアが開いたタイミングで鼻をかみたいと書く前にかんだ。そうしている間にたくさん人が乗り込んできたらなんとなく噛みづらくなる。さっさとかんだ。まず左鼻を2回、そのあと右を1回。コロナで鼻詰まりがひどかったときに正しい鼻のかみ方なるものをたしか調べた。一気に強くかむのは見るからに体に良さそうではないが、どちらかというとかんだあとに息を吸うついででずるずる鼻水吸い込んでしまうのがまずいらしい。せっかく体が異物を排出しようとしているのだから、丁寧に、片方ずつ出し切るようなかみ方が望ましいようだ。西船橋についた。僕がこの電車に乗ったのは始発駅の千葉なので当然座れていたのだが、例によってというべきか、鼻をずるずるやっているときに両サイドギチギチに人のいる場所に居続けるのはすこし息苦しいので、立ち上がって隣の車両にうつった。しかし今日は端っこの車両から真ん中に向けての移動だったため、あの向きで乗ってくるやつは確実に車両を変えているとわかる移動の仕方だった。でも奥の車両まで歩いたはいいが案外一つ手前の方が空いていたので踵を返してきました、みたいな人も居ないではないと思うので、いいか。側から見た僕の状況がひとつに絞れてしまいそうなのが嫌だったのでしょうか。それ誰が見てんだってやっぱり僕がみてますから、気にしないのはたぶん無理。だから今日ひとつ試してみているのが、なんか僕にとって恥ずかしい出来事があったとして、それを気にしない、ではなく、諦めてというよりフタをするように、あるいはピントをずらすように書くことにうつってみる、でもなく、もしかして恥ずかしくても全然問題ないんじゃないか?と考えてみること。恥ずかしいののなにがダメなんだと。諦め20%、どうにもならない居心地の悪さ30%を差し引いた50%の心象を分解していく感じ。昨日読んだ郡司ペギオ幸夫さんの創造性はどこからやってくるか?の影響をもろ受けしているのが見てわかるが、影響はもう受けちゃって頭の作りも多少変わっちゃってるわけだから、あとはそれを隠すように書くか、開示するように書くかの違いなのかもしれない。そして僕は感じた変化を開示することを目的として、モチベーションのひとつとして、自分の言葉をひねりだしていくためのトリガーとして扱っているから、そのまんまとは言い難いまでも割にあけっぴろげに書いているつもりだ。割に、は村上春樹のエッセイや雑文集を読んでいるとよく使われているので真似ているが、郡司さんの本だっけ?ここ3日以内で割合に、という言葉を目にして、そっちのほうが音としてはしっくりくるなと思った。エグい香水の匂い。鼻が詰まっているのにわずかな隙間から、人造人間プライドとの戦闘の最終局面でエドワードが、すでに壊れかけのプライドの器のかわりにされそうになったとき、賢者の石、すなわち無数の命を流し込まれる動きを逆手にとって、隙間から這い出るようにプライドの内部に侵入していったあの動きのように僕の鼻を突き抜けてくる匂い。平井駅ではめちゃくちゃな数の人が乗ってくるから発生源と思われるおばさまからは離れてしまったし、書いているあいだにバイト先の最寄駅に着いてしまったので、残念ではあるがこれ以上の解析はできない。ただ思い出すことはできる。距離がとれたあと、3人くらい人を隔てていても香ってくるものなんだろうかと鼻に意識を集中させてみると、チョコレートの匂いがした。チョコレートはチョコレートでも、赤坂で食べてびっくりした、スパイスのかかったフォンダンショコラのような、とにかくもうスパイスというかただのカレーのような匂い。今思えばあれはおばさま1人から染み出たものではなかったかもしれない。僕たちの間を遮る、ある種兵士のような見え方もしないではないようなおじさま3人、スパイシー担当は彼らだったのかもしれない。みんながみんな居心地悪そうに、あるいはここが満員電車であることを忘れようと努めていたように見えたが、まったく別の方向を向いていたあの人たちの香りが組み合わさると、赤坂で食べた印象的なひとつのデザートが想起されるのだから不思議だ、しかも食べ物というのも。外を歩いていた時は開通していたが、施設内にはいり、トイレに篭るとまた鼻が詰まってきた。丁寧にかんでから出勤する。

昼休憩、13:10。ちゃちゃっと飯を食って外に出てきた。おにぎり2つに加えてプリンの残り、パウンドケーキの切れ端も食べちゃった日は漏れなく腹を壊している気がする。いや、そこに加えて自前で持ってきた煎餅やらしょっぱい系のお菓子を食べてしまうとタガが外れたようにおなかがゆるくなってしまっている可能性もある。飲み物はアイスカフェモカの豆乳変更にした。看護師とのダブルワークでこのカフェ勤めている方が、鼻のアレルギーがひどくなったらまず薬ですけど、たんぱく質を摂ってみるのも間違いないです、と教えてくれた。そこから一日のうち一瞬でも鼻の調子がすぐれなかったら昼に飲むスタッフドリンクは豆乳で飲もうと決めている。そしてだいたい鼻はむずむずしているので直近で豆乳にしなかった日を思い出せないくらいだ。一度、間違えて牛乳で作っちゃったごめんというのが1週間ちょっと前にあったかな。口ぶりの割には近いじゃないかという感じだが、まあ多分それくらいだ。そのおかげかわからないが、たんぱく質のことを教えてもらった当日は地球がかち割れていないとおかしいくらい体調のバランスが崩れていて、レジを打っている最中なんか常に倒れそうだったあの一日から2週間ほど、勤務中に鼻詰まりがしんどいなと感じたことは一度もない。行きの電車ではけっこうきついときが多くある。あれは鼻詰まりがどうこうではないクソみたいな圧迫感とも言えるのでノーカウントでいいのかもしれないが、現に鼻がめちゃくちゃ苦しいときのことを、鼻詰まりの話をしているのにもかかわらずあえて考慮に入れないというのは変な話か。そもそもノーカウントってなにをカウントしてるのか、豆乳が救えた鼻の数か。いや救えなかった鼻の数か。これはお前のせいじゃない、社会が生み出したクソみたいな空気だって言ってやらなきゃ豆乳が不憫だという話をそういえばしていたんだった。肌寒いようでいて、薄手の長袖シャツを腕をまくって着ていてもゆうに座っていられる。肌寒いなら袖を伸ばしてやればいいのか、すぐやります。やりました。まくられていた部分は人肌から少し距離があったはずなのに暖かくて、じんわりどこからともなく、体とお湯の境がなくなったみたいに温かさが入ってくる温泉を思いました。これなら多少風が強まっても、あと20分くらいは外にいられるだろう。伸ばした袖に目をやると、ココアやカフェモカに使う茶色のモカソースが、水で薄まってはいるものの確かににじんでいる。しばらく袖を伸ばしたまま作業をしていて、ドリンクをかき混ぜるマドラーを取ろうとする手の旅路のなかにモカソースの注出口というかトンガリはいて、まんまとあとで洗濯機で洗えばなんとか取れそうなくらいにソースが袖についてしまった。それを2周期やった。たぶん洗濯機にいれれば取れるし、それを心配するならチノパンにもっと黒々とした付着の仕方をしている方のソースを気に掛けたほうがいいに決まっている、というほどの脆弱な汚れだったが、こういうのは早めに拭き取ったほうがいいという一般的な知恵みたいなものが湧いてでてきて、結局僕はそちらに従ってしまった。なんで目の前にいて一生懸命口を動かしている俺ではなくて、どこかのそれっぽい髪型の、数学の参考書でいう、せいぜい基礎をいくつか組み合わせた難しめの例題みたいな喋り方しかできない知らんタコの言葉を参考にして人を糾弾できるんだとはかなりの頻度で思っているが、構造的にはさして違いのないところで僕もまた間違えているんだな。だからといってこの怒りが消えることもなければ、反省して次に即活かしますんで!なんてことも言えはしない。多分また間違える。2回とは言わず3回くらい。3回間違えてようやくしっぽ掴めるかな、くらいだろとはまたかなりの頻度で僕が思っていることだ。2度目はいい、しかし3回目はないぞって長めに様子を見ているようでいてまだ早い。だってそれじゃ2回目が3回目みたいなもんじゃん。これミスったらあと1回しかないのか、、がもう要らない。何度でもミスらせてくれ、頼むから。なんでこっちがお願いせなあかんねん、なにがダメなんそもそも。〇〇してはいけないというルールがあったとして、〇〇の定義は自分の頭でいま一度やっておかないとわけもわからず縛られるし訳もわからず怒りが湧いてきて、それを逆ギレなんて雑に形容されたって反論ができないような哀しい状態に陥りかねない。お茶を淹れるとは、茶葉に熱湯を注ぐこと。それが終始熱湯でないといけないのか、一緒になにか入れてはいけないのか、自分の頭で考えなくてはならない。お茶を淹れるとはなにか、沸騰した直後のお湯を注ぐと味が落ちるが、毎度忙しい朝に冷めるまで待ってなどいられない。だから熱湯と一緒に氷を入れてみる。これが創造。質的変化を伴う創造であり、外側にとどまらない外部との接触。なんでこれはあかんねん、なんでこれはおもろいねん、僕はそれをとにかく他人の言葉を公式に当てはめて説明することを拒否していればなんだかうまくいくことが多いなあ、と思っていたのだが、こうやって改めて公式を提案してくれる人が世界にはいるのだ。それも日本に。郡司ペギオ幸夫。中沢新一。お茶の例だけではない、今日書いた全て、郡司さんのパクリ。言い過ぎか。でもこれから書く全て、どこかでパクってどこかで自分で捻り出す。それをずっとやっていたら、僕が向かう先は捻り出す量の増やす事なのか、はたまた最後までそれは付加的なことなのか。価値。僕にとっての価値。なにがおもろいねん、なにがどう美しいねん、可愛いねん。それを知りたい。なにがメインでなにがサブとかあるんかいな、全部知りたいに決まってるから、こうやってぐるぐる徘徊するように生きとるんとちゃうんか。

帰り道

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