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4回の流産と、その後出産した話ー不育症の思い出(1)
※出血、流産の表現がありますので、ストレスに感じる方は読むのを気を付けてください。
同じような状況にある方に私の経験をお話しすることで、少しでもお役に立てればと思います。
私は過去4回の流産を経験しています。いわゆる不育症です。色々検査しましたが、原因不明でした。原因不明なので、治療らしい治療もほとんど出来ませんでしたが、5回目の妊娠で現在6歳の息子を出産しました。
4回の流産の時のことは、細かいことは忘れてしまっても、その時の気持ちや印象的な風景などが焼き付いて離れないものがあります。
少し残している当時のメモを見ながら、思い出しながら、私の不育症の経過と思い出を書いています。
2010.6 : 初めての流産
結婚して4年、なかなか子どもを授からず、子供は自然に任せて、と思っていましたが、不妊症かも?と思い始めていたころ、初めて妊娠しました。
生理は大体規則的に来ていたので、予定の日を過ぎても生理が来なかったのです。市販の妊娠検査薬を予定の日の1週間後くらいに使ってみました。妊娠していると出て、産婦人科に行きました。病院で、妊娠しているとはっきり言ってもらえてうれしかったです。とうとう私にも赤ちゃんが来た!と。でも数日して、1日の中で1回か2回、下着に少し血がつくことがあるくらいでしたが、出血して来ました。翌週また受診して、エコーで、赤ちゃんは少し大きくなっていると言われ、安心したものの、出血は続き、だんだん、生理の終わりごろくらいの出血が常時出ているようになりました。
そして、ある日、朝からお腹が痛いなと思っていた、その日の夕方。たくさん血が出る感覚がして、トイレに駆け込んだら、それこそどっと出血。ああもうダメだ、と思いました。私は看護師として働いてきた経験があり、多少知識があります。出血がこんなに始まってしまったら、今から病院に行ってもどうにもならないと、冷静に分かっている部分があって、トイレでとにかくある程度の出血と腹痛がおさまるのを待って、落ち着いてから、シャワーを浴びて、休みました。夜、帰って来た夫に多分流産したことを話し、泣いて、とにかく寝て、病院は、次の日に受診しました。
エコーで見てもらって、完全流産。6週6日。
6週くらいだと、胎芽(赤ちゃん)は1cm未満。出血と一緒にいつ流れ出てしまったのか分かりません。
病院に行っていなければ、生理が遅れた、遅れた生理が量が多かった、と思うだけで、流産とは知らなかったかもしれません。
私は4回流産していますが、すべて、自宅で流れてしまい、その後、病院に行って診察してもらった時に胎児を確認できることはありませんでした。一番長くお腹にいた3回目の流産の時でさえ、9週だと2cm近くあったはずの胎児でも出血の時は重い生理といった感じで、いつ出てしまったのか分かりませんでした。痛みも耐えられないほどではありませんでした。痛みに強いほうというのもあるかもしれませんが。
全妊娠の15~20%は流産してしまうそうです。数字を聞くと多いと思いますよね。でも、結構、自分の流産の経験の話をすると、実は自分も、とか、叔母さんが、友達が、とか話をしてくれる方も多くて、流産自体は結構起こり得るものだとの認識を新たにします。
流産の中でも妊娠12週未満の早い時期での流産が8割以上だそうです。私の4回の流産は全部この時期の早期流産でした。
初期の流産はその卵子や精子、また、受精卵となった時の遺伝子に異常があるものが大多数で、お母さんに原因があるものはほとんどないのです。
遺伝子が、もうそこまでしか生きられなかったのだから、短い数週間、それがその子の精一杯生きた時間だと思います。
初めての流産を経験して、知識としては知っていても、自分に起こるなんて、私って運が悪いな、と、とにかく悲しかったです。
夫は、「そういうこともあるよ」「次はきっと大丈夫だよ」と慰めてくれましたが、この慰めが軽く思えて、イライラもしました。でも、精一杯、私がダウンしている間の家事などをしてくれていたので、だんだん冷静になり、流産した時にかける言葉なんて、考えてもそれくらいしか無いよな、と、思い、夫なりに励ましてくれているのを感じられるようになりました。
大丈夫と言って、一緒に頑張ろうと言ってくれる人が夫で、良かったと思いました。また、この人の子供なら産めると思いました。
また、看護師になったばかりの頃、私は鬱になった経験がありますが、一緒にいてくれる人がいるというのは本当に大きな心の支えで、流産してつらいけれど大丈夫と思えました。
実家の両親にも妊娠したことを言っていたので、流産したことを伝え、私の母親は、私と同じように泣いてくれました。母は、それから、池川明さんの「ママ、さよなら。ありがとう」という本を知っていて、買ってきてくれました。本なんて、こんな時に読める気分じゃないと思ったのですが、読んで、すごく共感して、泣いて泣いて、癒されました。
2011.8 : 2回目の流産
初めての流産から1年ちょっとして、2回目の妊娠をしました。
しかし、8週3日で前回とほぼ同じように出血して流産となりました。
近くの産婦人科に通っていましたが、ここの先生は、2回くらい続く人もいるけど、きっと大丈夫ですよ、と、楽観的な先生で、今思えば何の根拠もなくよく言えるなと思いますが、先生がそう言ってくれるなら大丈夫かなと、そう深刻になることもなく、生命力の強い子ならきっと生まれてくるだろうと信じて過ごすことにしました。
2012.4: 3回目の流産→掻爬手術
2回目の流産から半年ちょっとすぎて、3回目の妊娠に気づきました。今度こそ、きっと大丈夫、と、信じていたのですが、今までと同様にだんだん出血し、ある日腹痛と大量の出血、病院に行ったら、もう胎児がいない、見えない状態でした。しかも、この時は不全流産で、まだ、お腹の中に妊娠中の付属物が残っている状態で、手術が必要となり、流産が分かった翌日に掻爬手術を受けました。
全身麻酔の手術でした。これまで私は重い病気や怪我をしたことがなく、全身麻酔を始めて受けたのですが、手術が始まるときはすっと眠ってしまい、手術が終わって目が覚めるまで何もわかりませんでした。
終わって、一瞬、目が覚めた時、付き添ってくれた旦那に気がつきましたが、幻覚が見えて、病室に赤いイソギンチャクが大量に出てくるので、「イソギンチャクがいるから、まだ眠る」と言ったのを覚えています。
それから1時間くらいして起きて、日帰りの手術なので、お会計をして帰りましたが、麻酔が合わなかったのか、吐き気がすごくて、手術前から食べていないので、胃液を何度も吐き、それまで少し感じていた悪阻の吐き気よりもつらかったのが悲しかったです。
翌日も吐き気でほとんど物を食べられず、翌々日になってやっと食べられるようになってきました。
後になっても痛みはそんなに感じませんでした。生理痛の軽いときくらいでした。痛みにはやっぱり強いほうかもしれないです。
楽観的な先生も、「3回も続くと、そういうこともあると言っていられないね」と大学病院に紹介され、不育症の検査をすることになりました。
排卵日のあたりに診察とか、生理が来てから採血とか、そのちょうど良いタイミングで診察を受けるために1か月、2か月とどんどん時間が経ってしまうので、もっと早く検査をすることに決めて、病院を変わっていれば、とも思いました。が、結局、原因が分からないままに、のちに元気な息子を産むことが出来たので、検査の早い遅いは関係がなかったなと思います。
大学病院、それから、某有名クリニックでの検査でも原因不明
<大学病院での検査>
全部血液検査でした
・血液凝固能異常
・膠原病や抗リン脂質抗体症候群などの自己免疫異常
・甲状腺ホルモン(FT3、FT4、TSH)
・空腹時血糖 HbA1c
・私、夫の染色体検査
全部正常。原因不明。
数か月かかって、色々な検査をしても原因不明だったので、ネットで検索して、他県の不育症の有名クリニックへ紹介状を書いてもらって、そちらに行きました。こちらのクリニックで、大学病院での結果を見ていただき、足りないと思われる血液検査や、子宮の形態や血流状態の超音波などによる検査をしてもらいました。が、すべて異常なし。やっぱり原因不明でした。効くかもしれないし効かないかもしれないけれど、と内服薬(バイアスピリン)を処方していただき、飲み方を教えてもらいました。
バイアスピリンは血液凝固能異常のある方には効果があるようですが、私はそれも正常なので厳密には適応外になるけれど、でも、3回の流産歴があるから、と保険が効きました。効果があるかどうか分からないけれど、お守りみたいに思って飲んでいました。
2013.9 : 4回目の流産、彼岸花がまぶしく咲いて
不育症は検査をしても原因不明の人が6割ほどと言われ、まだ、その原因が良く分かっていないようです。どうして私は流産してしまうのかと悩みもしましたが、医学でも解明できていないことで、検査でも分からないことです。私が考えても答えのないこと。
夫と、私が40歳までは、とにかく頑張ろうと話しました。バイアスピリンを飲みながら、赤ちゃんが来てくれるのを待ちました。
2013年の秋、4回目の妊娠に気付きました。一応、大学病院に通って診てもらっていましたが、やがて今までと同様に少しずつ出血。そんな中、予約していた診察の日に、エコーで、前回動いていた心臓が動いていない、繫留流産と言われました。9週5日でした。
この時は出血も少量で、腹痛もなく、大丈夫だろうと思っていたのでショックが大きかったです。
その日のうちに、1週間後、大学病院で手術の予定を入れてくれました。が、手術の日を待たずに、今までの流産同様、出血が起きて流れてしまうこともある、との説明を受けました。
繫留流産というのは、本当にショックでした。まだお腹にいるのに!心臓が動いてないなんて先生が良く見てないのかも!という思いでいっぱいで、大量の出血を見ていないので、もうダメだなんて信じられず、一番つらかったです。
その翌日、週末で、何をする気にもなれずぼーっとしていましたが、夫が、なるようになるしかないから、美味しいものを食べに行こう、と、外食に連れ出してくれました。正直、家にいたかったのですが、お腹はそれなりに空くけれど、作らないと食べるものは無いし、夫は料理が出来ないので仕方なく出かけました。
ぼーっと、夫の運転する助手席の窓から外を見ていたら、澄み切った青空に、稲刈り目前の金色の稲穂の波、真っ赤な彼岸花が畦道沿いに溢れるように咲いていて。
彼岸花の花言葉、知っていますか?
「また会える日を楽しみにしています」
お腹の中の子から言われた気がしました。
澄んだ空に帰って行ったんだと思いました。
それから、繫留流産と診断されてから4日後、やはり、家で腹痛と大量の出血が起こり、病院で診察してもらった時には完全流産で、手術は受ける必要は、もう無かったです。
この後、実家の祖母と不思議なやり取りがありました。数か月後、その祖母が亡くなって、とても悲しかったのです。その辺のことはまた次の記事に分けて書いています。
亡くなっても今でも大好きなおばあちゃんです。
次の記事<おばあちゃん、ありがとうー不育症の思い出(2)>
2014、5回目の妊娠~息子の出産
4回の流産後も不育症について取れる対策も、出来る治療も無いまま、基礎体温は測って、効くかどうか分からないけど気休めに、と、処方されたバイアスピリンを飲んではいました。
生理が予定通り来ない、基礎体温を見て5回目の妊娠をしている、と、思っても、また流産するかも、との気持ちのほうが大きく、素直に喜べなかったのを覚えています。
妊娠したなと思っても、すぐ病院へ行っても、ちゃんと確認できないこともあるので、1週間以上は待ってから病院へ行きました。ちゃんと妊娠していました。
流産の不安が消えなくて、妊娠中もずっと怖かったのですが、少しの出血や羊水が少し少なかったり、胎児が少し小さめだったりと、少し、心配なことはありましたが、おおむね順調に、息子が産まれてきました。
産まれてきてくれて本当に良かったです。
終わりに
息子が生まれるにあたって、特に何か治療をしたわけではないし、内服薬も、あなたに効くかどうか分からないけれど、と出されたものでしたが、息子は元気に産まれてきました。
原因不明の不育症で、4回の流産を経験して、でも、諦めなかったのは、夫や、実家の家族や、出会った先生方もみんな優しく、支え続けてくれていて、大丈夫という気持ちでずっといられた、それだけです。
命って不思議で、命を産みだすことは、頑張ってどうにかなるものではないんだなぁと、産まれる命は産まれてくるんだなぁと、とても感じます。
流産も誰のせいでもないです。
みんな幸せでありますように。