子どもを産めば自分の人生から降りられるのか
インターネット上では結婚して子どもを作ることで「何者か」になることから降りられるという言説が定期的に囁かれる。
常に「何者か」になった人が注目を集め、キラキラした生活をSNSで発信する現代においては「何者か」になろうと焦り、「何者か」になれない自分に対して辛さを感じることも仕方のないことなのだと思う。
そして、自分は「何者か」になれなかったと諦めた後に、そんな自分でも結婚して子供を作れば一先ず「遺伝子の乗り物」としての自分の役割を果たせたと自分の人生を肯定できる、というのが子どもを作れば自分の人生から降りられる論の肝であろう。
しかし、本当にそうなのであろうか?
子どもは「自分のコピー」ではない
子どもと引き換えに自分が何者かになることから降りることの一番のリスクはなりたかった自分を子どもに託してしまうことだろう。
自分がいけなかった音大に子どもを行かせたい、アイドルにしたい、東大に行ってエリートになってほしい等々、自分の夢を子どもに託して教育虐待のようになるケースは枚挙に厭わない。
子どもは自分の遺伝子を半分受け継いでいるだけの独立した人間であるし、時代も環境も違えば自分の夢を叶えたからといって、自分が夢見たものと同じ成功をつかめるとは限らないのだ。
子どもを作ることで自分の人生から降り夢を託したいと考えているのであれば、それは子どもが「自分の遺伝子を半分受け継いでいるだけの他人」であることに気付かされるだけの虚しい試みに終わる公算が高いだろう。
子どもが「遺伝子の乗り物」に育つとは限らない
子どもに自分の夢を託さなかったとしても自分の子ども(あるいは孫)が末代になるリスクは決して消えない。
目下のところ生涯未婚率は上がり続けているし、日本の相対的な地位の低下によって自分の息子・娘が経済的な弱者となり結婚できないリスクは無視できないものとなっているだろう。仮に自分の子どもが遺伝子をつなげていけたとしても、その子供は? 孫は? と考えていくといつかは血脈が途絶えるという確定した未来を先延ばしにしているだけのように見える。(極論を言えば人類もいつかは滅亡するわけで、すべての家系はいつかは途絶えるわけだし)
TLでこの論を話しているのは独身か、子どもがまだ小さい人ばかりなので子どもがある程度まともに育つことを前提としているように見える。
子どもが成人して結婚する見込みのない人に子どもを作って自分が何者かにならなくてよくなったのか聞いてみたい。(自分の親に聞けという話ではあるのだがそれはあまりに残酷なのでしたくはない)
まとめ
僕としては子どもを作ったとしても、自分の夢を託すのであれば子どもは自分とは違う人間であると知るだけの、遺伝子の乗り物として定義するのであればそうなれない世代を先延ばしするだけの無意味な試みのように思えてならない。
自分としては「失敗を約束された試み」に人生を費やすのではなく、自分の人生の意味と価値をもう少し深く考えていたい。安易に生物的な価値に逃げるのでなく、動物ではなく人間なんだということを意識していきたいと思いました。