支援は被害者を自由にするもののはずだが、日本ではなぜ「支援が支配に変わる」のか?

日本では、伊藤詩織さんの映画上映をめぐる議論が続いている。
この議論を通して、私は改めて「支援のあり方」について考えさせられた。
彼女を支援してきた元代理人の弁護士や女性記者たちは、映画の映像使用において関係者の許諾を得ていないことを批判した。
弁護士の西廣氏は、「傷ついた」という感情を記者会見の主要な主張にした。
しかし、この「傷つき」は本当に被害者による加害なのか?
むしろ、支援者の期待が裏切られたことによる傷つき、ではないかと私は捉えている。


弁護士たちの主張の矛盾

西廣弁護士らの主な主張は以下の通りである。
1. 伊藤さんは、裁判以外でホテルの防犯カメラ映像を使用しないとする誓約書にサインしていたにも関わらず、映画で許諾なく使用した。
2. これにより、弁護士の信用が失われ、今後の被害者救済活動に支障が出る可能性がある。
3. 誓約違反により、ホテル側が今後、民事訴訟等で映像を提供しなくなる恐れがある。
4. その他の関係者(警察官やタクシードライバー、女性記者の集まり)も許諾を得ていないため、関係者が削除を求めている。
5. 「約束を守り、誰も傷つけずに映画を作ることはできたはずだ」という主張。
この記者会見の後、ネットでは「映画には許諾を得ていない関係者の映像が使用されている」という批判が大きく広がった。
しかし、私にはこの主張に違和感を感じる。
そもそも、裁判後のホテルの防犯カメラ映像の使用権は誰にあるのか?
また、誓約書の有無が、今後ホテルが映像を提供するかどうかに直接影響するのか?
もしそうなら、なぜ弁護士たちは今後も映像提供が続くように、ホテルや企業に対してビジネスと人権の観点から対応を求めるのではなく、伊藤さんの映像使用だけを問題視しているのか?
被害者支援の専門家としての論理として、疑問が残る。


日本社会の「見て見ぬふり」の構造

日本では、ハラスメントが発生しても、多くの人は「関わらない選択」をする。
その背景には、紛争に巻き込まれることで不利益を受けることを恐れる心理がある。
このような社会のあり方は、今回の弁護士たちの行動によっても再確認されたのではないか。
社会的に強い立場の人の規範に従わなければ、制裁を受ける――日本社会は、この「暗黙のルール」を何度も繰り返し見てきた。
今回、元支援者たちは記者会見で伊藤さんが規範を逸脱したことを糾弾した**。
これは、「私たちの規範に従わない者には、社会的制裁を与える」という権力の行使に他ならない。
本来ならば、被害者支援をしてきたはずの人々が、伊藤さんに同じ権力構造を使って粛清を行ったのではないか?
そして、これは「弁護士やジャーナリストの規範に従わなければ、こういう仕打ちを受ける」というメッセージを社会に発信する行為でもある。
この手法をとった元弁護士たちの職業倫理は、果たして適切だったのか?
私は、この点に強い疑問を持っている。


対人援助における共依存とバウンダリー問題

日本は権威の規範を重視する社会であり、歴史的背景から家(父)長風土も根強く、ジェンダー問題を抱えた社会と言える。
女性が社会の決定層に少ないことは、社会に不寛容さを生み、ケアの価値を低く見積もる構造を作り上げてきた。
そのため、福祉政策や犯罪・ハラスメント被害者支援の制度は十分に整備されておらず、支援者たちは「善意と献身」に基づく理念や信念を軸にした「寄り添う」支援を強いられる傾向がある。
この結果、弁護士たちは被害者支援を業務として担うことが過酷な労働となり、「こんなに支援したのに」という心理が生まれる要因になっている可能性がある。
支援者と被害者の関係が共依存的になり、バウンダリー(境界線)が曖昧になった結果、支援者側が被害者に対して「支援の見返りとしての従順さ」を求める心理が働くのではないか。

1. 共依存と支援者の役割の混同について

· 日本の対人援助では、支援者が被害者の意思決定を尊重するよりも「正しい導きをする者」としての役割を持ちやすい。
· 医師や弁護士といった社会的に信用度の高い職業が「指導者的な権威者」として扱われることが、その関係性を強化する。
· 「寄り添う」という言葉が、時に支配の構造を作り出す。

2. 欧米の対人援助との違い

· 欧米の支援では「支援者と被害者は対等な関係」が重視される。
· 人権学習が幼少期から提供され、被害者支援の体制が整っている。
· 日本では「人権」が「道徳」と混同されがちで、対等な関係性の構築が困難になっている。

3. 「支援疲れ」と被害者コントロールの関係性

· 過酷な支援活動が、支援者の心理的負担を増やし、被害者をコントロールしたくなる構造を生む。
· 今回の支援者の『私たちはここまでやってきたのに…』という心理が生まれた背景には、以下の心理学的要因が影響していると考えられる。
① 承認欲求と『尽くした分だけ報われるべき』という心理

  • 「見返りの期待」(Reciprocity Expectation):人間は自分が与えたものに対して何らかの見返りを期待する傾向がある(社会心理学)。支援者が長期にわたり献身的な行動をしていると、被害者がそれに「感謝し、従う」ことを無意識に期待するようになる。

  • 自己犠牲の認知的不協和(Cognitive Dissonance):支援者は「自分はこれだけ尽くした」と思うほど、見返りがないと心理的な矛盾(不協和)を感じる。その結果、「支援を受ける側は支援者に従うべきだ」という考えが強まる。

 ② 支援者の『過剰な役割化』とパーソナル・コントロール

  • 支援者が「自己のアイデンティティを支援活動に依存する」 と、「支援者としての自己価値」が最優先される。

  • 支援者は、被害者の行動が自分の期待と異なると、それを『裏切り』と感じ、自己の支援活動を正当化するために被害者をコントロールしようとする。

  • 「私たちはここまでやってきたのに…」という言葉には、支援者が「自分の存在意義を脅かされる」ことへの防衛反応が含まれる。

欧米と日本のジャーナリズムの違い
伊藤詩織さんは、英国など欧米でジャーナリストとして活動しているらしい。
ここで注目すべきなのは、「ドキュメンタリー制作における許諾の扱いの違い」 がないか?という点だ。私はジャーナリズムは素人なのでネットとA Iの情報を頼りに以下のように整理した。
欧米

  • 公益性が高いテーマを扱うドキュメンタリーでは、関係者全員から個別の許諾を取ることは必須ではない。

  • 事件や社会問題を告発する映像では、「真実の記録」として、関係者の許可なしに使用されることが多い。

  • 報道の自由・表現の自由が重視され、権力の監視機能が強い

· 公益性のあるテーマでは、個人の許諾が必須ではない

日本
· 関係者の合意形成が重視され、許諾取得が求められる
· 報道の独立性が制約され、公益性よりも当事者の合意が優先されがち
· 権力に対するジャーナリズムの監視機能が弱い
その結果、報道の独立性や告発の自由が損なわれる傾向がある。
日本では公益性があっても、関係者の許諾がないと批判される傾向が強い
この違いが、今回の映画の批判にも影響しているのではないか。 日本では「被害者が声を上げること」そのものがハードルになり、報道の自由と人権保護のバランスが取れていない。

つまり、これらの違いがあるのであればら今回の問題は、「支援者が傷ついたかどうか」ではなく、「日本における支援と報道の自由のあり方を見直す機会」ではないか?

結論
支援者と被害者が「対等な関係性構築がし難い社会構造」の問題。
「支援者の傷つき」は、被害者の責任ではない。
「報道の自由と肖像権のバランス」はどこで取るべきか。
「日本のジャーナリズムと欧米の違い」— どのように是正できるのか。
この視点から、今回の問題をより深く考える必要がある。
📌 補足資料:
文化庁の報告書では、欧米諸国では公益性が高い分野において、権利制限や救済の制限規定が設けられており、ドキュメンタリー制作においても、必ずしも全ての関係者から許諾を得る必要はないとされている。
→ 文化庁報告書(bunka.go.jp)


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