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勝負師の気持ちが少しわかった:三流投資家としての自分

 どうも、新米投資家の川瀬ニフミです。
 
 本日の日経平均は大幅に上昇しました。私のポートフォリオのマイナスもかなり解消されました。暴落に関してはもう過去の事実となりつつあります。
 
 さて、今回の暴落に関して、私は一つわかった事があります。それは私が三流の投資家だという事です。
 
 結果から言えば、大幅に暴落した8月5日に私は、有り金全部突っ込んで勝負すべきでした。実際、有名投資家の清原達郎はそういう選択を取ったようです。
 
 私自身は8月5日に、ポートフォリオが真っ青になるのに頭を抱えて、ビビりながらも少しだけ買いましたが、それ以上動けませんでした。他人の評価はどうかわかりませんが、あの場面で全力で買えないのは、投資家としては駄目だったな、と自分で反省しました。(これは自分に対する評価で、他人は関係ありません)
 
 こう言うと、自分に対する評価が厳しすぎるかもしれませんが、私はそう感じました。最も、別に私は大金を稼げる投資家を偉いとか凄いとか全く思っていないので、別に三流投資家でも構わないな、という感じも持っています。
 
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 話は変わりますが、先日、テレビを見ていたら、スキージャンプで有名な小林陵侑という人がギネス記録に挑戦するという番組をやっていました。誰もやった事のない、長い滑走路の、雪山のスキージャンプをするというものです。
 
 番組の中で、小林は「今回で死んでもいいと思っているからあとの予定は入れないできた」と言っていました。
 
 おそらく、本当に人生で「勝負」した事のない人は、こうした小林の発言をハッタリであるとか、カッコつけであると捉えるかもしれませんが、私はこの人は素直に自分の感情を話しているだけだなと感じました。
 
 同じような話で、格闘家の那須川天心が、はじめての総合格闘技での試合、腕を極められかけて、その時に「腕一本失ってももう一本あるからいいや」と言っていたのを聞いた事があります。これも今から考えると、ごく素朴な発言です。
 
 私は彼らは本当にそう思って言っているのだと思います。これらのは発言は嘘ではなく、彼らからすると「普通」です。ですが、その普通が理解できない我々凡人は、そうした彼らの発言を過大な、誇張だと思いたがります。
 
 話を投資に戻すと、もし私が那須川天心や小林陵侑のような勝負師であったなら、私は、8月5日に「願ってもないチャンスが来た」と全額突っ込んだでしょう。あの日、あの一日は、勝負すべき時でした。そのあと一ヶ月はカップラーメン暮らしでもいいぐらいに勝負時でした。
 
 私は勝負できなかった自分を振り返って、(ああ、駄目だったな)と思いつつも、はじめて、勝負する人の気持ちが少しわかりました。それは「破滅してもいいからここに全て賭けよう」という感じです。
 
 ただ、これがただのギャンブルになってはいけません。8月5日の暴落の日であれば、あの日は冷静に振り返れば、極めて勝つ確率の高い賭けでした。日経平均が四万円越えをしても、日経平均のperはせいぜい17倍程度。バブルの時は50倍程度だったそうなので、そう考えると、日経平均は極端に割高だったわけではありません。(perというのは高いほど割高、低いほど割安です)
 
 あの日は絶好の勝負時でした。ですが、私は震えて、足がすくんで、動けませんでした。それが私の実情でした。そしてそういう自分を振り返る時、小林陵侑や、那須川天心といった勝負師がどういう気持で勝負しているのか、少しだけわかった気がしました。彼らは本当に(死んでもいい)と思って事に臨んでいるのです。
 
 そしてこの事は人として、合理的とも言えます。人はいつか死にます。人は老いますし、いつかは散ります。花のように。だからこそ、死を決意してでも自分のやるべき事はやっておいた方がいいのだと思います。
 
 小林陵侑や那須川天心と反対の意見として、私は次のような意見をネットで見ました。それは証券会社の販売する投資信託で損をした人が「証券会社が元本保証していない商品を販売する事に違和感を覚えた」というものです。
 
 別に証券会社を擁護するつもりはありませんが、そもそもこの世のあらゆることに元本保証はされていません。神は我々をこの世に存在させるにあたって、生命の元本保証をしていません。「私はあなた方をこの世に送り出すからせめて、あなた方の命は保証しましょう」とは神は言っていません。まあ、神がいるとしての話ですが。
 
 もちろん、現実社会では銀行は元本保証をしますし、真っ当なメーカーは自社の商品を保証します。不良品なら取り替えてくれます。それは我々が求める合理性というものを、人間が作り出した社会が応じてくれるような、そうした態勢になっているからです。
 
 しかし社会の外の自然に目を向けると、現実はそうではありません。自然は、この世に重篤な障害のある人間を送り込んで、その後、一切の責任を取りません。それだけでなく、若くして交通事故にあって死んだとか、障害を負ったとか、本人に何の過失もない場合でも、自然はそれに対してなんの責任も取りません。
 
 人間という種は、そうした事実に「理不尽」を感じる存在です。ですが、この理不尽さは、人間の外に広がる自然の必然性と長らく続いてきたものです。
 
 安定した収入、安定した人生、成功、幸福。そうしたものをいくら思い求めたところで、人生は無常であり、人は儚く散っていきます。それ故に人は、死をも覚悟して、自分のすべき事をするーーそれが、あえて言えば、小林陵侑や那須川天心や清原達郎のしている事なのかもしれません。
 
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 そんなわけで、私は投資家として8月5日に勝負できなかったな、と感じました。もっとも、最初に言っているように、一流の投資家を人として尊敬しているわけでもないので、別に三流投資家でも構わないと思っています。
 
 ただ、私自身、投資という行為を通じて、初めて、勝負時に勝負する人の心性を垣間見たような気がするので、それをここではメモとして残しておく事にしました。世間では、成功する人間は最初から恵まれているとか、そういう事を言いたがります。確かに、そういう人はいますし、会社の金をギャンブルに使い込む三流の人間すら、金持ちで恵まれているからといってもてはやすような人間もいます。
 
 ただ、この世には本気で(死んでもいいや)と思って勝負する人が存在する、という事は知っておいてもいい事かと思います。それは自己を蔑ろにした不合理な選択であるように思われるかもしれませんが、人間の存在が本質的に無常な存在である事を思えば、それはむしろ合理的な選択とも言えます。

 人が死ねばその人の行為だけが残ります。そして、その人は、自らの存在を賭けてでも意味のある行為を求める…そうした事は無意味ではないと私は思います。そしてこうした人達が往々にして、新しい時代を切り開く要因になるのではないか。そんな風に私は考えています。
 
 
 
 補足:こうして文章を書くと、私が清原達郎や那須川天心や小林陵侑を極めて高く評価していると思われるでしょうが、実際にはそれほど高く評価しているわけではありません。ただこのあたりの事情はこれから明かしていくか、明かさないか、それはこの先、気まぐれに判断してやっていきたいと思います。

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