『この世界の片隅に』のリアルさと、「そのまま聴かれる」話のリアルさ
SUMASHIKA~「耳を澄ます処」から~No.71. <呆然> 2021年7月ごろ
聴くことのワークショップでは全員に意見を求めるということはしませんが
最後にお一言ずつ感想をいただきます。「無ければナシでもいいですよ」と申し添えて。
でもこれは正確な言葉じゃなかったな、って思います。
「無ければ」だけじゃなくて、「在りすぎて出てこなくて」「ちょっと胸がいっぱいで…」、そんなときもどうか、言葉にせずにいてください、でした。
言葉にならないというその姿が雄弁にその方を物語っています。
先日も「ちょっと呆然としてしまって…」というお言葉をいただきました。
その響きが残っている今日、たまたまネットで岡田斗司夫さんが映画「この世界の片隅に」を激賞する動画を見ました。
「自分が行った回の全員が、見終わってこれ、どういうふうに思ったらいいんだろう、と呆然としていた」「感動の一番すごい領域が”呆然とする“だ」とおっしゃっていました。
言葉にならないもの、圧倒されるもの。見た人の感想が、支離滅裂になるような。
その要因の一つは、主人公「すずさん」が存在しているということを信じさせるためのすごい描写であるということでした。広島や呉の様子、そして、行李を背負う動作や、お箸をとってご飯茶碗をとってまたお箸を持ち直して、というのを省略せずに描いている。
さて、「ちょっと呆然としてしまって…」のご感想をいただいたときに読み解いたのは、いつものように、「普通の人」(話すことを仕事にしているわけではない人)が、特にテーマを設定せずに語った15分の録音記録です。
ただ、通常と違うのは、「そのまま聴く」と決めた人の前に居たこと。
そして、録音記録は、省略せず、編集せずに文字起こしがされていること。
背景の音や、遠くで話している人の声も(この声は全部は文字起こしできないけれど…)。
「この世界の片隅に」が苦心して描き出したリアルさというものを15分の逐語記録は、そのまんま最初から持っているから、丁寧に見ていくと、言葉にならないようなナニカでいっぱいになり、心ふるわされるのだと思います。