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「発語できない魂がある。」『言葉果つるところ』(鶴見和子対話マンダラ 石牟礼道子の巻)


2023年3月27日に書いたものです。

今日、『言葉果つるところ』(鶴見和子対話マンダラ 石牟礼道子の巻)(藤原書店 2002)をつまみ読みしました。
脳出血を経験して言葉を命綱として生還した鶴見和子さんと、『苦海浄土』石牟礼道子さんの対談です。

鶴見「いま情報化社会になっていて、言葉ですべてが解決することになっている。で、言葉が全部機械化されてる。機械で伝達できる言葉だけがいま残っているわけ」

石牟礼「機械で言葉を生産してると思ってるけれど錯覚で、言葉を全部、分断機にかけて切って捨ててると思うんです。言葉にならない情感とか悲しみとかもひきくだいてぐじゃぐじゃにして、切り刻まれ捨てられる運命にあると思うんです、言葉は。単なる記号になっているんじゃないか。言葉のいのちも衰えてきて…」

鶴見「言葉のない世界というのは、水俣では一番深いところにある。…。発語できない魂がある。」

石牟礼「もだえて加勢する」って言い方があるんです。一軒の家にご病人が出たり、けが人がでたり、とんでもない厄災に見舞われたりして、お見舞いに行くときに、でも加勢のしようがない状態のときにもお見舞いにかけつけて、ごあいさつをするのに、なんにも加勢もできませんけれども、「もだえてなりと加勢しませんばなぁ」といって、言葉のお見舞いを、私はもだえて加勢しております、っていうんです。あいさつでいう人もいるんですけれど、そんなあいさつもできないで、ちょっと離れて、心配そうに立って、起きてる事態はなんとなくわかっているらしいけれども、そんな気のきいたあいさつもできない。ちょっと離れて、後ろにいたり、横っちょにいたりするんです。その人はそういう仕方しかできない.人さまとのおつきあいもできないんですよね。村の中にちょっとふつうの人と違うたたずまいで立っていたり.しゃがんでいたりする人は、そのうち村の人たちも気づくのですが。、いつとはなしに、「あぁ、あれはもだえ神さんじゃろう」と思うんです。もだえ神さんになって憂えているわけですね」

………………
言葉を大切にするという以上、言葉が果てるところ、言葉がない世界の大切さやかけがえのなさこそ、最も肝に銘じ、そして、言葉を切り刻まず、体温を持ったものとして向かいたいと考えます。

写真は恵那市の農家民宿「ときのうた」の前に広がる風景。
いつかときのうたで、澄まし処、させていただきます。と、未来の自分と約束しとこ(^^)

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