縄文時代を見る。(後編) ~関東~ そして結末。
埼玉県デーノタメ遺跡
縄文時代の中期~後期(約5000~3800年前)の集落
長径約210㍍、短径約160㍍の長円形。
関東でも最大規模の環状集落と。
単純に中期~後期のあいだは1200年。
210~160㍍の集落で1200年、代々受け継がれる暮らしはどれ程のものか。
周辺地域には同じような集落が幾つも形成されていただろうし、もっと広がった交流のある大規模集落だったと個人的に思いたい。
上記の記事には三点ポイントが示される。
・野生種より大粒
・豊富な豆類
・果実を搾った?
栽培の結果、クルミの実が大粒になっている。
ヒメコガネという虫の死骸が多いところから豆類の蓄えが盛んだ。
ベリー類を搾っていた痕跡。
身の回りの植物から手を入れ利用していたなど当時の生活環境を鮮明に解明出来る遺跡と。
埼玉県川口市 赤山陣屋跡遺跡 木組み遺構
その役割の再考検証
トチの実は食べた事はない。
木の実の代表は「栗」と思う。
しかし、クリは他の生き物にも人気な木の実。
ヒトは、クリよりも人気の無いトチの実の方が安定して口に入りやすいなら、私でも目の前にあるトチの実を如何にしてより美味しく食べられるか考えることだろう。
先人たちは試行錯誤を繰り返し一手間も二手間もかけて「トチ加工」という施設を作り上げた。
作業する人の分担をつけて流れるような効率を産み出した。
ここでは、再度検証して「アク抜き」~「洗い場」、石を用いた「貯水部」など新たな議論が出て発展する事に期待する。とある。
縄文時代後期の初め(約4000年前)当時の主食、保存食の確保に工夫を重ねた遺跡に変わりはない。
伊豆諸島の末端まで交易
貝輪の未完成(写真)は弥生時代
伊豆諸島から1000km以上沖にある北硫黄島から長さ約30㌢の巨大な打製石斧(約1900年前)は、マリアナ諸島やミクロネシアの文化との共通項があると。
また、旧石器時代や縄文時代に関東各地の遺跡で出土した槍先や矢じりの石器は神津島産の黒曜石と。
この記事は日本文化という以前の内容。
言葉も文字もどんなやり取りをしていたのか(ボディランゲージだったか)この記事では、それは読み取れない。
しかし、近海といえど100kmの距離を往来していた事は遺跡が物語っている。
それだけで充分です。
千葉にも早期の大集落
上の(前の記事)地図と被るとおり関東圏に集落を示す貝塚が見つかった。
貝塚の最下層からは動物の儀礼跡が豊かな恵みを願い祈ったのかもと。
当時の海岸線はもっと沖だとするなら現在の浜から40㍍の海水の底には当時の遺跡が眠っているのかもしれない。
神奈川鎌倉 アオトラ石
縄文時代前期末(5500年前) 東正院遺跡で北海道日高地方で採れる緑色岩「アオトラ石」で出来た磨製石斧が見つかった。
黒曜石、ヒスイ、コハクが従来知られていたがこの石が縄文時代の交易を物語る存在と。
長さ約17㌢ 刃幅約5㌢ 意外に小さく感じる。
副葬品と見られる。
刃の摩耗も少なく未使用らしい。
集落の長か、材質にこだわりを持つブランド志向の集落外の人では? と想定出来るとか。
見出しと説明
以上、私はどれも、簡単に説明を加えてきました。
新聞の記事は、当時の人が数ヶ月程度で辿り着いた実績ではなく、五年十年。 いや世代でいう親から子へ孫へと、百年二百年 何百年と食べる事への執着執念を日々の暮らしの中で繰り返してきた、奇跡のような積み重ねの痕が土の中から現れて、研究者のひたむきな汗によりまとめられた報告書に目を通し、短時間でそれらを知ったような感覚を、私たちは得ただけ。
私は、それを文にして書いて載せてるだけ。
遺跡としての姿は「結果」か?
ここでこんな議題を持ち出すのは見当違いと諭されるのも覚悟して続けたい。
「結果が大事だ」という人がいる。
「結果が全てだ」という人も。
そう言う人が全員というつもりは毛頭ないが、この人らは、結果を導き出す「経過」を口に出してその労力や費やした時間に光を当てて讃える事など無い。あったとしても極、稀だと言いたい。
(私の身の回りでは皆無)
いや、「経過・過程」に光を当てること自体「無駄」という仕草を見せる人もいる。
陽の目を見る。(漢字はあってるかな?)
太古の昔の暮らしが、この世に遺跡として現れる。
私たちはそれを見て、知って、学んだ時。
得たその知識の裏に潜む「見えない」「当時の人の汗」まで五感全てを敏感にして読み取りたい。
そして、わたし的「気づき」があるなら、それがほんの些細な部分だとしても、その時に初めてその遺跡の一部分をも「知り得た」という、満足感・充足感に我が心は浸れると思いたい。
真に知る事
結果を見る
どちらも同じに感じる時、混同して使い分けが出来てるか出来てないか。
特に上の立場にある人こそ自問して「心ある話しの展開を駆使」(これを指導という)して欲しい。
率直に言うなら、結果を論ずるなら己自身が真に汗した苦労の息遣いと共に発する生きた声でおはなしして下さい。という事。
私は、それを意識して「見出しと説明」を書いた。
縄文人の死生観は見えたか?
縄文時代の死生観を感じたい。
その思いで限られた「新聞の切り抜き」の中で今回展開してきた。
で、それは見えたか? の問いに私は「YES」と言いたい。
それは、生への執着、活き様を研究者の努力の結果から当時の息遣いを感じさせてもらったから。
充足した生があるから死を迎えられる。
死を迎えた時どんな生活を送ったかが見える。
土の中から、洞窟の中から、閉ざされた空気が解放され光が差し込んだ時の匂い。
そこから現れたそのままの姿こそが当時を現しているし、飛躍してはならない。
五感で飛躍せず思いに至ったそのものこそが
わたし的に大切に宝物として留めておきたい。
抽象的な表現で申し訳ない。
縄文時代~弥生時代~古墳時代の生活の継承。
暮らしの営み、弔いの在り方の時代変遷。
抜粋した記事から骨子となる死生観は感じられた。
というか……。いや、この先の続きは、別の角度の展開時に表現したいです。
(*ˊ˘ˋ*)。♪:*° 缶