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自力と他力 と のび太

30代までの頃

私が義務教育を受ける期間から成人して30歳近くまで仲間に頼るのではなく、自らの手ですべてを取り組む。という責任感を持っていた。

スポーツでいうと中学は卓球、高校は軟式テニス。
どれも、個人競技。
団体競技のスポーツは仲間と助け合うが個人競技は己の力のみ。仲間(ヒト)を頼る団体競技は逃げ道を作れる。 個人競技は己のみなので逃げるわけにはいかない。
自力=独力=成功を修める、成し遂げられる。
自らを磨き強くなる事で勝利を掴める。
と真剣に思っていた。

なので一人の真の大人とはあらゆる強さ(精神力、統率力、突破力)を全て備えている。
とも考えていた。

生きるとは全て備わったその力を余すことなく出す事に尽きる。 その先に成功は付いてくるもの。
こんな極論を心の片隅に置いて生きて来た。

当然、仕事が上手くいかなかった事もあったし、挫折を何度も味わいもした。これが現実なんだと言い聞かせていた。

他の力 托卵

逆に他力とは、自分以外の仲間に頼る事であり。
「力を借りるなら一時的にちょっとまでは許す」みたいな自分勝手なルールを適用していた。

事の始まりから終わりまで他力を通すなんてそんな楽な仕事や生き方は論外。とまで決め込んでいた。
そんな30歳代を歩んでいた。

自助 共助 公助。
ほら、基本は自らを助ける中で、周囲が、自治が助けに入る。
自力が基本なんだよ。なんて本気で納得してた。

鳥の托卵。
は?
自然界では誰が教えたのか、我が子を他種の鳥の巣に産み、親である自分はサッサと次の生活を勤しんでいる。 卵からかえった雛は周りにあるかえってない卵を巣から落とす。その巣の親鳥は今生きている者の成長のため、健気に餌を与え温もりを注ぎ込む。
(一見するとこの雛の生き方は自力とも見れる。因みにこの托卵をする鳥はカッコウ)

人間の世界では乳児は産まれながらに最弱。
草食の馬の子どもは母のお腹から出てきて数時間で立ち上がり自ら歩き母乳を嗅覚を頼りにしてたどり着く。

しかし、乳児は数時間、数週間経っても立ち上がれない。

他力 親という他の力あってこその成長。
親は子の反応そのものが嬉しいもの。
世話がやける事が嬉しい。
乳児は自らのダダを全身でアピールする事で周囲を幸せにさせる力が備わっている。

ん?
乳児には、周囲を幸せにする力が備わっている?

大人とはあらゆる強さを全て備えている?

乳児の頃は他力で、大人になると自力?

ヘルプ

仕事でヘルプを出す。
「お願いします、誰か手伝ってくれますか?」
「良いよ!」
気兼ねなくそんな関係が自然と出来ていればその組織は素晴らしい。魅力的。

仲間内でさえ、「このヘルプは幾ら請求するね」と金を請求したり、恩着せがましかったり、いつも人に頼りガチ等など、そんな息の詰まる職場や環境、ましてや家族親戚に至っては早々に御免蒙りたい。 でも往々にして多少の我慢をして孤独に乗り切る事の方が常態化してはないか。

一時的に頼られるのは悪い気はしないし、
適度な、もたれ合いが計られれば世の中もっとスムーズに行くのにとさえ思う。

40歳代から今に至っては自力の呪縛から少しづつ解かれている。 長年のクセが染み付いていて、そう思ったからといってなかなか切り替えられないのが実情。
「これ出来る?」
「やってみます!」
物量が分からなくても、限度が見えなくても
「やってみます!」。
後から「ちょっと、キツイです」のタイミングはいつ言えばいいだろう? なんて状況は未だにしょっちゅう訪れる。
まだまだ、自分で抱え込む自滅タイプに片足や両足を交互にしてドタバタ感満載の空気を放っている。
不器用だ。

何でも仲間に頼る。頼り上手。
それに周囲はちっとも嫌な顔をしない。
何故だ?
そんな人を見ると羨ましい。

自力か他力か、では無く。
自力も他力もその時に応じて使い分ける。
自然にそれが出来るなら身につけた財産のようなもの。 
磨き上げて大切に発揮して人生を楽しんでもらいたい。
他力寄りに見える人もいれば、私みたいに自力にドップリの人もいる。 
早くそんな境地に辿り着きたい。

托卵されて育った雛も、育てた鳥も、産み落とした鳥も自然の中で懸命に生きている。生きる知恵。

適度にもたれ合える計測器なんてあったら
 便利だろうな~ のび太の気持ち分かるな~。
 のび太は他力のいい見本だった。
ドラえもん世代の私は、のび太のようにドラえもんにばかり(他人に)頼ってはイケナイ、甘えてはイケナイ、独り立ちしないとイケナイ。
そんな風に「のび太」を反面教師的に見て学んでいたのかもしれない。

(*ˊ˘ˋ*)。♪:*° 缶  2024.0822

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