Facebookの違和感

ワタシが、はじめて「インターネット」から広がる世界の広さを知ったのは、12年くらい前のような気がする。

大江戸線って深いよねー。ってツイートした時に、
フォロワーさんが一番深いのは六本木駅で地下●mです!(確か40m以上だった)と答えてくれた。(何かわからない事があれば、その分野のすごい人が好意で答えてくれたりすることさえあった。)

でも、腕立て伏せ連続4回出来たっ。とツイートしたら、
ある方に30×4回ですか?と聞かれた。
違います。と答えたら、他の人から10×4回ですか?と聞かれた。

ただの4回ですけど、なにか?
胸を張って書いた。)

でも、道後温泉にでも行こうと松山のホテルを早めにチェックアウトしたとき、確かに「少し早めにチェックアウトする」とは書いたが、どこのホテルとは書いていなかったので、ロビーで「鮎永さんですか?」と声をかけられたときはリアルに5cmくらいは飛びあがった。(ワタシならこのホテルを選ぶであろうと思った、と言われた。あ。ちなみにワタシより年上の女性の方でした。)

また、仁川空港で、ゼブラ柄のコートにふわふわのついたスニーカー履いてる?とフォロワーさんからDMが来た時も、一瞬だけど膝がガクガクした。

普段は、顔を合わさない、会った事のない人だからこそ、面白いコミュニケーションの化学反応が起きる事がある。腕立て伏せの例のように、ワタシがこれは当たり前だ。って思っている事が他の人にとっては当たり前じゃなかったりする。

その当たり前のレベルの違いこそ、コミュニケーションをとる上での「旨味」になりうる訳で、それを議論する事は自分の頭にしわがぴしっと音を立てて入る瞬間に
立ち会う事が出来たりする。

それに引き換え、

Facebookって実名だし、同じ学校とか会社とかリアルなコミュニティとかでグループができていたりするので、インターネットのアドバンテージが有効活用されていない気がする。(ま、トレードオフなんだろうけど)

先日、めちゃくちゃ顔の広い大尊敬するある経営者が、Facebookについて
・投稿を見直し、リスク確認
・家内や子供と友達になる
とポストしたら、

「絶対ダメ!」「やめた方が良い!」「幸せを何故捨てる!」「後悔するぞ!」と恫喝まがいの大炎上だったらしい。

よってFacebookの使い方はもちろん人それぞれだけど、
・リアルな幅広い人脈の(対外的な)整理と
・卒業アルバム的役割と
・同じ属性(学校や職業など)のコミュニティづくり
などに向いている気がする。

例として方言を出してみる。

ワタシは京都弁を22年間話してきたが、大学卒業後JALに入社して、ある先輩に「その方言やめてくんない〜?」(陰険な感じで語尾は上がる。)と言われた事がある。

本当にバカで浅はかなのだが、当時のワタシは「方言」に関西弁は含まないと勝手に思っていたので、これにはかなりショックを受けた。

それ以降、敬語の時はもちろん、フランクな話し言葉も完璧な標準語をワタシは話す。(関西人はそうは言ってもねーとよく言われるので、ワタシの標準語には関西弁の匂いはしないことを付け加えておく。)

そして、これはもうすっかり板についてしまって、初対面の方がもし関西弁であってもワタシは自動的に標準語で話すまでになってしまった。

そんなワタシも実家の母から電話がかかってくると、
「あーママー?うんー。めっちゃ元気にしてるよー。姫ちゃん(猫)は元気にしてるんー?」とダラダラの京都弁に一瞬で変わる。

ちなみに戻るのは言葉だけではなく、立ち居振る舞い、表情や態度などすべてに関西弁Ver.がある。

英語になるとワタシの場合、その差は更に顕著になり、思考の回路までが変化する。

インターネット上でのコミュニケーションもワタシの感覚ではそれに近くて、それぞれの言語とそれぞれの自分がいて、その「どの自分」で付き合うか?が選択できるから、学校属性や棲息地域属性が全く違っても、同じ感性属性や同じコミュニケーション属性の人たちと出会えるキセキの場となり得る。

そんなキセキを期待して、Facebookも2010年に登録し、リクエストほぼ全部に答えていたら、あっという間にお友達が5000人になっちまい、泣きながら約1000人をリムーブした。元々のワタシの使い方が間違っていたんだが、そう言うキセキはFacebookではあまり起きなかった。

あの時から感じた違和感は、今のワタシが初対面の人に関西弁で話すような感じの違和感なのかと思う。

前出の経営者が、周りの経営者から全力で「奥様と子供達と友達になることを止められた」のもそう言う違和感からじゃないか、とワタシは思っている。

家の中、会社、コミュニティなどで、大人になると立場や役割によってその場にふさわしい顔があるんじゃないかと思う。

自分の感性を迎合する事なく、摩耗させる事なく表現出来るそんなって
やっぱりヒトが好きなワタシにとってはとても重要で、
そう言う意味ではFacebookに10年間感じていた違和感がやっと言語化できた今日という日はなんだか10年の便秘が解消されたような気さえする。

やっほーいっ。

励みになります。個別にお礼のメッセージさせていただきます。